もう1つの蝸牛庵訪問記
「向島寺島蝸牛庵」

 ここを去るにあたって、例によってその後の蝸牛庵訪問記も紹介しておきたい。

 前掲の東京文学散歩第1巻『隅田川』中の「向島寺島蝸牛庵」である。前述のように、「寺島蝸牛庵」が1952年春、そして「向島寺島蝸牛庵」が1958年3月と、6年のブランクはあるが、すでに前者ですべきことはほぼし終えており、後者は実質的には再録といった趣だ。

 しかし、それは第一蝸牛庵が登場する場面以降のことであり、白鬚神社から大倉別邸跡(もう料亭もつぶれてしまっていた)にいたる堤防沿いの見聞が増補されている。

 白鬚(寺島)の渡しの跡、川べりにある広い隅田川造船所、そこからは対岸の橋場や浅草の風景も見える。野田は「数ある隅田川風景のなかでも都会的で優れた眺めの1つだと思った」とまで言っている。そこに、幸田文が『おとうと』(1957年)で書いた隅田川の風景が重ねられる。

 町歩きの記述から、その土地とからめての作品の紹介へと、叙述がいつのまにか四方八方に拡がり、融通無碍にいろんなところへ入りこんでいく、その組み合わせの妙は、野田の文学散歩の真骨頂なのである。

 どうでもいいことだが、あの秀逸な終わり方も、6年前には「自由軒の前から右へゆくと、地蔵坂の下に出た」とあったのが、今度は「自由軒の前から左へゆくと、また甲州屋の前に出る」と変えられている。

 甲州屋の前はとりもなおさず第一蝸牛庵の前であり、だとしたらまたしても野田は「再び大倉別荘の坂の中途に立って、あらためて甲州屋の全体の形と、横の旧蝸牛庵のたたずまいを眺めてみ」(「寺島蝸牛庵」)でもしたのだろうか。

 いずれにしても、この好エッセイには、野田の露伴や蝸牛庵、さらには隅田川や下町への愛が横溢していることだけはまちがいない。