さて、幸田文さんの口添えもあってか雨宮家の好意で内部にも案内された野田は、得意の関係者インタビューも試みている。当主の3代目庄兵衛氏、ご母堂のむめ(梅)さんである。

 むめさんからは露伴の雨宮家あての借家証書も見せてもらう。当時露伴が凝っていた写真の現像室などは、この時野田が注目するまでは忘れ去られていたのではないだろうか。

 このあと野田は、第二蝸牛庵の方に向かう。いったん雨宮家の横の「大きな坂道」の方に戻ると、何とそこは戦後有名になった「鳩の街」と呼ばれる売笑街の端の方だったのである。

「ちょっと、兄さん……」と「けたたましいような女の声」が野田を呼び止める。こういう部分になると、フィクションでは?という疑問が頭をもたげるのだけれど、ほんとうのところはわからない。

「鳩の街」のメインストリートから横に入っていくと、「左に露路のように狭い道が岐れ」た角に萩原という米屋があり、そこと「小道一つをはさんだ」向う側が児童遊園と防火用水池、これが第二蝸牛庵の跡地だ。

 ここで野田がこだわるのが前出の出版社との金銭的なトラブルである。トラブルといっても、当時ふつうにおこなわれていた「原稿料や印税の前借」をめぐるもので、前借で「その文人や学者の生活が豊かに保たれることによって」出版社は「何時でもその数倍の利を得ることが出来る」のだからと、野田の出版社批判は手厳しい。

「なつかしい寺島の地を永久に捨てねばならぬこととなった」露伴への同情の念が野田の中でふくらんでくる。こうして「わびしい」「さみしい」思いを抱いて、野田は第二蝸牛庵跡を去ることになる。そのあと野田がたどったのは、前述の米屋と児童遊園のあいだの「露路のように狭い道」だ。

 その道は途中で折れて第一蝸牛庵が面する堤下通りに出るが、そこで野田が見たのが、「自由軒」という名の「自由謳歌の明治の匂い」のかおる理髪店だったのである。先にこの文章を「東京文学散歩」中でも屈指の好エッセイと評したが、こんな終わり方ひとつとってみても、そのことは裏付けられるだろう。