「寺島蝸牛庵」にも登場した
昔風情な建物が現存する場所
この「寺島蝸牛庵」は野田の「東京文学散歩」中でも屈指の好エッセイだ。何よりも「東京文学散歩」の原点である町歩きがふんだんに見られるところがいい。地理説明がていねいで、読者がこれだけを携えてもたどり着けるように書かれている。
決定版の「その六」コースの時は曲がってしまった白鬚神社の角を今回は曲がらずに地蔵坂まで行き(ここで左折してすぐ右折してもよい)、そこも曲がらずに旧大倉別邸の高級料亭の前まで行き、そこから左に入っている。
このあたりは戦災をまぬかれた寺島町の一角で、殆ど昔のままと云った感じである。坂は途中正面の家で左に細く右に大きく2つに別れているが、その右の大きい坂のやや左に寄った正面に、如何にも古風な、がっちりとした2階建の雑貨商がある。酒類、煙草、その他を売る老鋪らしく、表札には雨宮庄兵衛と書いてある。
現在の番地は44番地である。これが昔の寺島1716番地の甲州屋で、この店の左横に門があり、裏離れのようになった50坪ほどの2階家がある。露伴が最も盛んな時代の10年間を暮した、当時そのままの蝸牛庵の名残りである。
ここまでは単に蝸牛庵とのみ書いてきたが、露伴が1716番地(のちの44番地)の蝸牛庵に住んだのは1897年から1908年までで、そのあと、ここから歩いて1、2分の1736番地(のちの60番地)に新居を構え、これも蝸牛庵と呼ばれているので、便宜的に前者を第一蝸牛庵、後者を第二蝸牛庵と呼ぶことにする。
第二蝸牛庵のほうは1924年頃出版社との金銭的なトラブルで立ち退きを余儀なくされ、その後ほどなく撤去されたという。跡地はその土地を取得した隣接するゴム工場(現・ヒノデワシ株式会社。消しゴム製造のトップメーカー)がのちに区に譲渡し、現在は幸田露伴児童遊園として有効活用されている。
現在流布している文学散歩本のなかにはこの第二蝸牛庵のほうを蝸牛庵として、のちに明治村に移設されたなどと記述しているものもあるが、1969年に解体され、1972年に明治村に移築されたのは第一蝸牛庵のほうである。