鎌倉幕府の成立年をめぐる諸説

 前項で見たように、教科書によって鎌倉幕府の成立年が異なるのは、通説が存在しないからである。何をもって武家政権の誕生と見なすのか、学者の間で見解の統一ができていないのが現状なのだ。

 この件に関しては、教科書のコラムにも取り上げられている。二〇二三年四月から高校で日本史探究という日本史通史を学ぶ新しい科目が誕生した。そのうち実教出版の教科書(『日本史探究』二〇二三年)のコラムを紹介しよう。

「鎌倉幕府の成立については諸説がある。

(1)1180年 頼朝が南関東を制圧
(2)1183年 寿永二年十月宣旨によって東国支配権が公認
(3)1185年 文治勅許によって守護地頭を設置
(4)1190年 右近衛大将に任命
(5)1192年 征夷大将軍に任命

 鎌倉幕府を武士の軍事政権と考えるなら(1)(3)が有力となるが、朝廷とのかかわりを重視するなら、(2)や(3)~(5)説となる。そのほか、幕府の成立を特定の時期に求めるのではなく、幕府の性格の段階的変化を重視する考えもある」

 教科書のコラムということで字数の制約もあり、説明が少々わかりづらいと思うので、これに解説を加えつつ、鎌倉幕府成立年をめぐる諸説を紹介していこう。

 一一八〇年説は、以仁王の平氏打倒を命じた令旨に呼応し、頼朝が挙兵した年。いったんは石橋山の戦いで敗れたが、その後、房総半島に渡って勢力を拡大し、富士川の戦いで平氏の大軍を敗走させた。

 この頃頼朝は鎌倉の地を拠点とし、御家人(頼朝に従う武士)を統率する侍所を設置、別当(長官)に和田義盛を任じた。こうして南関東は頼朝の勢力下に入ったのである。これを軍事政権(幕府)の誕生と考えるのが一一八〇年説だ。

 続く一一八三年説だが、同年、木曽義仲率いる軍勢が京都に迫ると、平氏一門は安徳天皇を連れて西国へ落ちた。代わって都を制した義仲だが、やがて後白河法皇と次の皇位継承者をめぐって対立するようになる。しかも義仲には、都の治安を維持する能力が欠如していた。このため後白河や朝廷は、義仲勢を駆逐する軍事力として頼朝に期待し、寿永二年十月宣旨を発し、東国の支配権を正式に認めたのである。宣旨では、東国の荘園・公領の税を朝廷に納入するよう命じている。