影子は、実際の子どもと同じようにふるまいます。実際の子どもは、自分になかなか目を向けてもらえないと、親が困る行動をしますが、気を配ってもらえれば、満足して落ち着き、しばらくの間また独りで遊びます。
影子も同じように、不安や羞恥心、怒りをまったく口に出してはいけない状況になると、その募る不満を抱えて意識の根底でくすぶり続けます。抑圧されて不愉快な気持ちになっている影子は、ときどき全力で自ら道を切り開いて表に出て、抱えている不満を他者に吐き出すのです。
専門文献やアドバイス書では、たいてい「内なる子ども」の人格部分は感情のみで分類されていますが、私は、「内なる子ども」は感情を生み出す根源となる「信念」によってもつくられていくと考えています。
信念とは、自己価値および他者との関係に関する、心の奥深くにある確信です。親から受け入れられ愛されていると感じた子どもは、「私は歓迎されている」「私は愛されている」「私は重要」といった日向子を強める信念を持つようになります。
これに対して、親から冷たくあしらわれ、願望をはねつけられた子どもは、「私は歓迎されていない」「私は重荷になっている」「私は雑に扱われる」といった影子をつくる信念を固めていくことになります。
信念は子どものころに生まれますが、その後、無意識の深いところに根ざしていきます。そして大人になってからも、心のプログラムの構成要素として無意識の中に存在し続けます。つまり、私たちがどのように物事を認識し、どのような感情を持ち、どのように考え、どのように行動するのかは、信念の影響をものすごく強く受けているのです。
信念を通して現実世界を見る
互いの「影子」が左右する夫婦仲
私たちが実際に信念からどのような影響を受けているのかを、夫・ミヒャエルと妻・ザビーネという夫妻の例で見ていきましょう。
ミヒャエルの母親は、ミヒャエルの存在を(当然、願望も)あまり気にかけていませんでした。ミヒャエルには二人の妹がいて、両親はパン屋を営んでいます。ミヒャエルの母親はとても忙しく、心身共に疲れ切っていたため、子どもの望み通りにそれぞれのことを気にかけることができませんでした。しかも、父親はそのような母親を助けることもなく、働いてばかりいたのです。
ミヒャエルは、現実の世界でも心の中でも、両親の存在をあまり感じることができませんでした。そのため、ミヒャエルの結びつき欲求と承認欲求のどちらも満たされないことが多くありました。そこから、ミヒャエルは次のような信念を持つようになったのです。「僕は雑に扱われる」「僕は重要ではない」。
こうした信念は、今も彼の認識を無意識に操作しています。ミヒャエルが「あの人は僕のことを気にしてくれない」と感じると、彼の影子はすぐに「またか、どうせ僕は雑に扱われるんだ!」と叫び出すのです。ザビーネがミヒャエルの願望をあまりにも気にしない(とミヒャエルが勝手に思う)ときに、ミヒャエルがすぐに激怒するのは、じつはこの信念に原因があったのです。
一方、ザビーネの両親は、ザビーネの面倒をよく見ていましたが、ザビーネに求める理想がとても高かったのです。両親が考える正解と不正解の差は紙一重であり、ザビーネは「私はパパとママが望むようにはできない」とよく思っていました。また、両親はこうしたザビーネの気持ちを非難することが、ザビーネを褒めることよりもはるかに多かったのです。
その結果、ザビーネの承認欲求の充足がしょっちゅう妨げられ、さらに、「自分の力を自由に発揮したい」といった自由欲求も満たされませんでした。そこからザビーネの影子は、「私は十分ではない」「私は相手に合わせなくてはいけない」という信念を持つようになったのです。
ここまでお話しすれば、ザビーネの影子とミヒャエルの影子がお互いにどのように作用し合っているのか、簡単に想像できるのではないでしょうか。
『「本当の自分」がわかる心理学 すべての悩みを解決する鍵は自分の中にある』(大和書房)シュテファニー・シュタール 著
ミヒャエルがザビーネのちょっとした不手際に対してすぐに怒って激しく非難すると、ザビーネの影子は「やはり、自分は価値のないちっぽけな存在なんだ」と実感し、ひどく傷ついていきます。そこで、ザビーネの影子はミヒャエルの攻撃に対して、怒りの感情と泣くこと、言い返すことで自分を守ろうとします。こうして、両者の争いはあっという間にエスカレートしていくのです。
信念を端的な言葉で言い換えるとしたら、“心を動かすシステム”といえるでしょう。そして私たちは、信念を通して現実の世界を見ています。そのため、信念は“現実を見るための眼鏡”ともいえるでしょう。ですから、自らの信念に取り組んでいくのは非常に意味のあることなのです。







