ミヒャエルは、現実の世界でも心の中でも、両親の存在をあまり感じることができませんでした。そのため、ミヒャエルの結びつき欲求と承認欲求のどちらも満たされないことが多くありました。そこから、ミヒャエルは次のような信念を持つようになったのです。「僕は雑に扱われる」「僕は重要ではない」。
こうした信念は、今も彼の認識を無意識に操作しています。ミヒャエルが「あの人は僕のことを気にしてくれない」と感じると、彼の影子はすぐに「またか、どうせ僕は雑に扱われるんだ!」と叫び出すのです。ザビーネがミヒャエルの願望をあまりにも気にしない(とミヒャエルが勝手に思う)ときに、ミヒャエルがすぐに激怒するのは、じつはこの信念に原因があったのです。
一方、ザビーネの両親は、ザビーネの面倒をよく見ていましたが、ザビーネに求める理想がとても高かったのです。両親が考える正解と不正解の差は紙一重であり、ザビーネは「私はパパとママが望むようにはできない」とよく思っていました。また、両親はこうしたザビーネの気持ちを非難することが、ザビーネを褒めることよりもはるかに多かったのです。
その結果、ザビーネの承認欲求の充足がしょっちゅう妨げられ、さらに、「自分の力を自由に発揮したい」といった自由欲求も満たされませんでした。そこからザビーネの影子は、「私は十分ではない」「私は相手に合わせなくてはいけない」という信念を持つようになったのです。
ここまでお話しすれば、ザビーネの影子とミヒャエルの影子がお互いにどのように作用し合っているのか、簡単に想像できるのではないでしょうか。
シュテファニー・シュタール 著
ミヒャエルがザビーネのちょっとした不手際に対してすぐに怒って激しく非難すると、ザビーネの影子は「やはり、自分は価値のないちっぽけな存在なんだ」と実感し、ひどく傷ついていきます。そこで、ザビーネの影子はミヒャエルの攻撃に対して、怒りの感情と泣くこと、言い返すことで自分を守ろうとします。こうして、両者の争いはあっという間にエスカレートしていくのです。
信念を端的な言葉で言い換えるとしたら、“心を動かすシステム”といえるでしょう。そして私たちは、信念を通して現実の世界を見ています。そのため、信念は“現実を見るための眼鏡”ともいえるでしょう。ですから、自らの信念に取り組んでいくのは非常に意味のあることなのです。