アメリカの中立性
アメリカのウッドロー=ウィルソン大統領は、外国の紛争にはかかわるべからずというジョージ=ワシントンの助言に従い、協商国と同盟国、その両方と貿易を続けようとした。
戦いの始まり
第一次世界大戦の最初の戦いは、マルヌの戦い(第一次マルヌ会戦、1914年9月6日~12日)で、協商国側が勝利した。フランス軍とイギリス軍は、パリを制圧される前に、マルヌ川付近でドイツ軍を食い止めたのだ。この戦いでは、塹壕戦という新たな戦争スタイルが使われ、両軍の戦線は敵の銃砲撃から身を守る塹壕で構成された。
西部戦線での塹壕戦は数年にわたって続き、ドイツとフランスは膠着状態に陥った。つまり、どちらの側も、相手を塹壕から退陣させられない状態が続いた、ということ。さまざまな新兵器が使われ、両軍の死傷者は膨らんでいった。
ちなみに、敵機をたくさん撃ち落としたパイロットは、エースと呼ばれた。いちばん有名なドイツのエースが、レッド=バロン(赤い男爵)ことマンフレート=フォン=リヒトホーフェンだ。
さて、東部戦線では、開戦からおよそ1ヵ月後、ロシア軍がドイツ軍に敗北を喫したけれど、オーストリア=ハンガリー帝国に対しては優位に立った。イタリアは、もともとドイツとオーストリア=ハンガリー帝国の支援を誓っていたけれど、第一次世界大戦開始当初は中立を貫き、三国同盟は崩れてしまう。そして、ドイツが潜水艦による戦いを始めると、1915年5月、イタリアは協商国側に加わった。
1915年5月7日、ドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈し、100人以上のアメリカ人(それに加えて1000人の乗客)が死亡すると、アメリカで反ドイツ感情が芽生える。1917年、アメリカ人を激怒させたのが、ツィンメルマン電報の発見だ。この電報で、ドイツはメキシコに対して、同盟を組んでアメリカと戦うことを持ちかけたけれど、メキシコはその誘いを断った。こうして、1917年4月2日、アメリカがドイツに宣戦布告をおこない、第一次世界大戦に参戦した、というわけだ。
ロシア革命と東部戦線の終戦
アメリカが参戦したのは、ふたを開けてみると、完璧なタイミングだった。というのも、その直前にロシアが戦線を離脱したばかりだったのだ。1917年3月(ロシア暦で2月)、戦時中のロシアの悲惨な状況に耐えかねて、首都ペトログラード(現在のサンクト=ペテルブルク)でストライキやデモが続発した。
ロシア皇帝ニコライ2世は退位を余儀なくされ、農民が大半を占める彼の軍は、抗議者の側についた。こうして、その後、皇帝とその一家は全員処刑されてしまう。
1917年11月(ロシア暦で10月)、ウラジーミル=レーニン率いる暴力的な革命派集団、ボリシェヴィキが、権力を掌握し、労働者や農民による、労働者や農民のための政府を求めた。
レーニンは、カール=マルクスの『共産党宣言』の理念に基づき、世界初の共産主義政府を樹立した。上流階級の市民の多くが反対した、この新しい共産主義政府は、ロマノフ朝による300年にわたる専制政治に終止符を打った、というわけだ。ロシアは自国で起こりつつある革命に専念するため、ブレスト=リトフスク条約に署名し、同盟国に広大な領土を譲り渡した。これをもって、東部戦線での戦いは終結して、ドイツは戦争に勝利する自信をつけたのだ。