建築はときに独裁者が国民を人心掌握するため、そして経済を活性化させるために有効な商品として利用されてきた歴史がある。日本と西洋の建築史を一望し、社会というアプローチから建築を読み解く。本稿は、坂牛卓『教養としての建築入門 見方、作り方、活かし方』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
国民をけん引する手段として
利用されてきた建築
政治とは、法をたよりに領土に居住する人びとの問題を解決する行いである。道路を作り、治水し、港湾を整備し、人びとが生きていく環境を整えるのは政治の仕事である。したがって、政治の主張は否応なく建築を通して表現されることが多い。さらに巨大な土木建築はおのずと人びとの視界に入り込み、政治性を露呈する。その意味で政治は建築に依存する部分が大きい。
また政治の下部構造である経済から建築を見ると、建築とは経済活動そのものである。人びとに仕事を生み出し、賃金を支払うことを建築は可能にする。経済が建築に頼るところも大きいのだ。
古来、政治の場は国威を発揚する場所として作られ、継承されてきた。近代市民社会へ移行してなおも、政治は国民を牽引する手段として建築を利用してきた。
19世紀後半から20世紀にかけて、産業革命、工業の展開で力を持った国々は原料の確保と貿易の発展などを理由に、領土拡大を試みる帝国主義の段階に入る。先に資本主義を展開し帝国化したイギリス、フランス、アメリカなどに対して、後発的に発展をとげたイタリア、ドイツ、日本が反発し、ファシズム(結束)化していった。日独伊のアイデンティティは建築においてどのように表出されたのだろうか。
ファシズム建築を考えるうえで、ここではイタリア、ドイツ、そして日本におけるプロパガンダと建築の関係を見ていきたい。
ムッソリーニがイタリア首相となったのは1922年である。経済の好調さを背景に、「ファシズム化」を宣言。国民が民族的な一つの束になって、暴力も辞さず戦う政治姿勢を打ち出す。
その実現に向けてムッソリーニは建築を利用した。イタリア近代建築史を専門とするパオロ・ニコローゾはこう言う。「ムッソリーニは、大衆をファシズムへと教化する目的で建築を用いた。建築が持つ扇動の能力を活用したのだ」。しかしここで大きな問題が生じた。国家的な建築を作るとして、果たしてそのデザインは誰が、どのようにして決めるべきなのか。
というのも、ローマに2000年の歴史を持つ建築が広く残っているように、イタリアは世界の建築の発祥地だ。しかし時代は建築の近代化を目指すモダニズム期。そこでムッソリーニは、新たに作る国家建築のデザインはあたかも国民の総意として「自発的に生まれたかのように」見せ、かつ国民を教化するものとするように仕組んだのだ。