ムッソリーニは、一つの様式を「発明」する必要を感じた。古くからの伝統であり、かつ近代性を感じさせるものだ。パオロ・ニコローゾの言葉を借りれば、「古代ローマにその起源を発する古典的伝統の総合……国民の中に、帰属意識と国家への誇りとを覚醒させることができ」、一方で近代的でもあるものを目指したのだ。

 しかしムッソリーニは当初からこの境地にたどり着いたわけではない。例えばファシスト党の地方支部である、北イタリアとスイスの国境の街コモに建つカサ・デル・ファッショ(1936年)はモダニズム一色の建物だ。

 ジュゼッペ・テラーニというイタリアを代表する建築家の一人が設計したものであり、真っ白な大理石が規則正しくグリッド状に並んでいる、純粋なモダニズム建築である。このときはまだローマ的なものをデザインに入れ込むことに執着していない。

 しかし1930年代後半になると、はっきりと「発明」の方向性が出てくる。1942年に開催されるはずだった幻のローマ万国博覧会のために、1935年から建設が始まったローマ郊外の小都市E42(編集部注/現在のエウル)を見るとよくわかる。

 E42の建造物には、アーチや列柱といった古典的なデザインが近代的な箱型建築の中に上手に埋め込まれていたのである。独裁者が建築を使って人びとの心を掴むために、新しい様式を発明しなければならなかった。

ドイツのナチス建築
日本の帝冠様式

 昭和初期に東京大学で教鞭をとった建築家の岸田日出刀は、1936年にドイツを訪問した。1933年にナチスが政権を握り、新しい建築づくりに着手していた。1937年にはヒトラーお気に入りの建築家アルベルト・シュペーアが弱冠31歳にしてベルリン市の建築総監に任命され、ナチスによる都市環境整備が本格化する。

 1941年にはシュペーアの友人であり部下でもあったルドルフ・ヴォルタースが『新ドイツ建築』を著し、ナチス政権下における建築のあり方を提示した。これに呼応するかのように、岸田は1943年に『ナチス独逸の建築』を著し、自らの視察内容、ヴォルタースの『新独逸建築』の全訳、そしてドイツ情報局編『国民は築く』の全訳をおさめた。

 ナチス建築の特徴とは何か。『新独逸建築』の中から拾ってみたい。本書前半では、新しいドイツ建築の本質と独自性を正しく認識するためには、近い過去を参考にせよとしている。すなわち、19世紀初頭の古典主義であり、カール・フリードリッヒ・シンケルが古典主義最後の偉大なる建築家と称賛される。