一等の丹下健三案は、富士山麓に伊勢神宮を彷彿とさせる忠霊神域を作ろうという構想だ。「神の如く神厳にして……新日本建築様式が創造されねばならぬ。……我々は日本民族の伝統と将来に確固たる自信をもつことから出発する」。

 丹下の言葉から新しい日本を目指す意気込みが感じられるが、神社の様式はあくまで伝統的なものであった。

 翌年にはバンコクの文化会館コンペが日本で行われた。こちらは建設を前提とするものだった。

 大東亜共栄圏の一員として、タイは帝国日本と文化協定を締結していた。したがって、バンコクの文化会館は重要な政治的意味を持っていた。

 このコンペの一等も丹下健三であった。日本古来の寝殿造に基づいたデザインであるが、幸か不幸か本案は実現を見ずに戦後を迎えた。

 帝冠様式にしても、丹下健三のデザイン案にしても、日本政府が先導して作り上げられたものではない。この点で、先に見たイタリアやドイツの戦時建築とは事情が異なる。いわば、建築家側が空気を読み、時局に合わせてデザインを調整したものだ。

 なお、のち1991年に丹下健三は、雑誌『新建築』の論考「20世紀から21世紀へ:その回想と展望」で当時を振り返っている。

 そこでは、当時隆盛を極めていたル・コルビュジエ建築については「衛生陶器」のように清潔だが感動を呼ばないと批判。そして「大東亜建設記念営造計画」のコンペについて、「伊勢神宮の屋根だけを地上に建て、……「衛生陶器」のような白い四角い箱ではなく、忠霊塔とか帝冠様式という日本式建築でもない、近代建築と共通性のあるような新しい日本建築の造形を探そう」としたと述べている。

 自己弁明の可能性は否めないが、日本とモダニズムの融合を図ろうとしたのは事実であろう。丹下の大政翼賛は体制の目に見えない圧力からなのか、モダニズムに対する自身の純粋な反発であったかはもはやよくわからない。

 戦後になると、戦時中のファシズム建築は一掃された。新日本建築家集団(NAU)が1947年に設立され、設立趣旨は「建築活動の民主化を図り正しい建築文化を建設、普及し」とある。直接的にせよ間接的にせよ、政治が建築に大きな影を落としていたのは事実であろう。