育児ノイローゼの要因となりかねない
「平均値」信奉と「悪」の過剰な排除

 昔であれば、日本は大家族だったので、育児に関する相談をする相手として、祖父や祖母がいたり、ときには親戚のなかの長老のような人がいた。父親、母親に育児のすべての負担がかかることはない。父親役、母親役をする人は、実父、実母以外にいろいろといたのである。現在の日本は急激に核家族化したのだが、そのことによって、父親、母親の役割が急に重くなったのである。その上、核家族になってしまったので、若い両親は相談するところがない。

 このような心配を大きくする要因として、「平均値」というのがある。例えば、三歳児の平均身長、平均体重というのがある。それより少しでも劣っていると心配になる。なかにはそれを超えると「太り過ぎ」と心配する人もいる。あるいは、五歳児の社会的発達はどの程度なのか、などという知識を仕入れてくると、それと自分の子とを比較して、どこかに心配の種を見つける。

 何もかも平均通りなどという子どもの方が珍しいのではなかろうか。心身の発達にしても、早かったり遅かったりしながら、その子どもなりの特徴を示しつつ伸びていくものである。「何もかも平均なんてことは、めったにありませんよ」とか、「このくらいの遅れは、全然心配いりません」とか、カウンセラーが言うだけで親は安心する。

 カウンセラーと言っても、専門的に訓練されている人はいいが、そうでもない「自称カウンセラー」の人が、逆に「お宅の子どもさんの○○は平均以下ですよ」と重大そうに言って親を不安に陥れたりする。これはもってのほかのことである。相談するときも相手を選ばねばならない。

書影『河合隼雄の幸福論』『河合隼雄の幸福論』(PHP文庫)
河合隼雄 著

 次に育児の相談で感じることは、子どもの少しの「悪」に親が過剰に反応することである。昔のように子どもが多く、親が忙しかったときは、子どもは適当に「悪」を体験しながら成長していった。こんなことを言うと、「悪を奨励するのか」と叱られそうだ。しかし、子どもの悪に対して厳しく接することは大切であるにしろ、すべての悪に対してそのようにすると、子どもはいじけてしまったり、あまりにも柔軟性がなくなったりする。

 それでは、どの程度の悪を見逃し、どこで厳しくするのか。このことも親は学習する必要がある。

 子どもがせっかく、その個性に応じて成長していくのに、親が固い標準を心につくってしまって、それによってノイローゼになるのは残念なことだ。子ども自身の育っていく力をもっと信頼してほしいと思う。