「子どもの幸福」を願っている、という親は、ほんとうに子どもの立場から見ての幸福を願っているか、親が「子どもの幸福」と考えることを勝手につくりだし、子どもが「幸福」だと信じることで、自らが安心したがっているのではないか、と考えてみる必要がある。子どもの苦労を見るのが苦しいので、それを避けようとしていることも多いのではなかろうか。

 最近、中堅のビジネスマンの人々が、私の本など「心」に関するものをよく読みはじめたとのことである。以前は仕事に忙しくて、そんな読書などしておれなかったのだろうけれど、それにしてもなぜ心の問題などをと疑問に思った。

 説明をしてくれた人によれば、これまでは一流大学を出て一流企業に勤めることが「将来の幸福」を約束されることだと考えていたので、自分の子どもたちにもその道を歩ませようとしてきたが、自分の今置かれている状態を考えると、そんな単純なことは言えないことがわかってきた。とすると、自分の子どもたちのほんとうの幸福を考えるには、どのような方法があるのか、その手がかりを何とかして得たいと、本を読むのだ、とのことであった。

 わが国のビジネスマンたちが「一流病」の害について気づきはじめられたのは、いいことである。一流大学を出て一流企業に勤めることが「将来の幸福」につながるなどというのではない。それどころか、そのために不幸になったたくさんの人に、私はお会いしてきた。「一流」という重荷が本人の個性や意欲を殺してしまうからである。別に「一流」が悪いのではない。皆の考える「一流」ということが基準になってしまって、その人が個人として考え、望むことがつぶされてしまうところに問題がある、と言うべきである。

 子どものほんとうの幸福を願うのには、どうすればいいだろう。もし、そうしたいのならば、「子どもの幸福」という名によって、親の安心や幸福を支えてもらおうとしていないかを、まず考えるべきである。

「子どもの幸福」の一番大切なことは、子ども自身がそれを獲得するものだ、ということである。とは言っても、それを「見守る」ことは、何やかやと子どものためにおせっかい焼きをするよりも、はるかに心のエネルギーのいるものである。