男のシャツを譲り受けようとしても駄目だったことは、ほんとうに「満ち足りた生き方」などというのは他人からの借りもので、できるはずがないことを示していると思われる。これさえあれば、息子は幸福になると喜んだ王様が、相手が裸と知って落胆するところが印象的である。考えてみると、息子に満ち足りた生活をさせようと父親がやたらに熱心になる、という出発点から違っていたのかもしれない。

我が子を幸福にしようと
努力する親たちのエゴ

 自分の子どもの幸福を願う人は多い。子どもの幸福のためとあらば、自分の幸福は犠牲にしてもいい、とさえ思っている人は日本に多いと思われる。またそのようなことを実行した「美談」もたくさんある。子どもの幸福を見定めるまでは「死ぬに死ねない」などと言われる人もある。

 子どもの幸福を願う親の気持ちや、その努力には頭の下がる思いがするが、どうも見当違いではないか、と言わざるを得ないときがある。例えばこんなことがあった。

 学校に行かない中学生の子どもを持った父親が、「今の子どもはぜいたくだ」と嘆く。自分は家が貧乏だったので、小学校卒業後は勉強させてもらえなかった。そこで働きながら「苦学」を重ね、とうとう今日のようになった。今では小さいながらも会社を経営するまでになったが、それまでに学歴のためにどれほど苦労したかわからない。そこで、子どもにはそんな苦労をさせたくないと思い、塾にも通わせ、家庭教師をつけて、中学校も「よい」私立校に行けるようにしてやった。

 親がここまで何もかもしてやっているのに、学校に行かず怠けているのは「ぜいたく」だ、というわけである。

 この父親はもちろん子どもの幸福を願い、自分が子どもだったころのような不幸を味わわせないようにと配慮してきた。しかし、子ども自身の立場になってみると、お金がなくて「苦労」しているのと、自分の意思でもないのに塾に行かされ、家庭教師つきで勉強させられるのと、どちらが「幸福」か、にわかに断定できないのではなかろうか。「自分の意思」を生かされているかどうかに注目するならば、後者の方が不幸といえるのではなかろうか。