邪馬台国の場所は
筑後か豊前あたりか

 さて、邪馬台国がどこにあったかというと、筑後か豊前あたりが最有力だと思う。

 南北朝鮮の境界付近にあったとみられる帯方郡から倭国へは、海岸に沿って航海し、狗邪韓国(のちに任那の中心になった釜山西方の金官国か)に着く。そして、海を渡って対馬、壱岐を経て末盧国(佐賀県唐津市を含む旧松浦郡)、そこから東南に行って伊都国(福岡市の西にある糸島市付近)、さらに東南に向かい奴国(福岡市付近)に着く。そこから東に行けば不弥国(筑豊地方か)である。

 邪馬台国と対立していた狗奴国は、家臣の名としてある狗古智卑狗(くこちひこ)というのが、菊池にいかにも通じそうなので、現在の菊池市がある熊本県北部と結びつけることは可能だが、断定するほどではない(狗奴国を皇室の先祖と言う人もいるが、畿内での大和朝廷の確立期と同時代なのでありえない)。

 結論としては、邪馬台国は不弥国から南か東へ100キロ未満の範囲内のどこかであろう。

 のちに斉明天皇が百済救援のための兵を挙げて九州にやってきたとき、宮を置いたのは筑後朝倉広庭宮(福岡県朝倉市)だ。このあたりが福岡市付近を含む筑紫地方全体ににらみがきく後方基地として適した場所という感覚を、古代人が持っていたからだ。隣には柳川市などを含む山門(やまと)郡があるし、狗奴国を熊本県の菊池地方と見ることともつじつまが合う。

 豊前の宇佐などもありうるだろう。中国地方や四国もありえないわけではないが、ちょっと無理がある。

 これから、もし、発掘で卑弥呼の墓にふさわしい大きな方墳でも出てくれば有力地だろうが、墓の規模は伝聞なので決定打にはならない。たとえ、金印が出ても、誰かが引き継いで別の土地に移してから埋めた可能性もある。

 とはいっても、皇室と九州の関係は特別だ。神武天皇、つまり実質的な日本国家の基礎を作ったとされる崇神天皇の先祖で、はじめてよその土地から大和に移住してきて、のちに大和朝廷に発展する小さなクニを立ち上げた人物が日向出身であることは、わざわざうそをつく動機もないからほぼ確実だろう。

 現在の皇室には、女系でいろいろ九州人の血が流れている。江戸時代の殿様では、細川忠興(熊本藩)、小笠原秀政(小倉藩)、松倉重政(島原藩)のDNAが引き継がれているし、明治天皇の外祖母である中山愛子は、平戸藩主で随筆作者(現代のエッセイスト)としても高名な松浦静山の娘として平戸で生まれている。

 昭和天皇の妃となった香淳皇后の母親は、最後の薩摩藩主島津忠義の娘である。そして、上皇后美智子さまの母親は佐賀藩の家老多久家の家臣副島氏の出身であり、皇后雅子さまの母親は佐賀藩の手明鑓(てあきやり)という武士と農民の中間的な階級出身の江頭氏である。2代続けて皇后を佐賀県の関係者から出したことは、県民の誇りだ。

(評論家 八幡和郎)