大和朝廷と邪馬台国は
ほぼ同時期に交流なく発展
一方、考古学でなく、政治史的にみたら、畿内説は説明不能に近い。『魏志倭人伝』がやたらともてはやされているが、五世紀の中国南北朝時代の『宋書』における倭の五王の遣使についての記述のほうがより具体的であるため、はるかに重要な基本文書と位置づけるべきだ。宋は東晋に代わって中国南部を支配した中国南朝の全盛期の王朝である。
大和朝廷は413年から478年にかけて盛んに中国南朝に使節を送り、朝鮮半島の支配について支持を得ようとした。五王が『日本書紀』におけるどの天皇にあたるか若干の異説はあるが、私は仁徳天皇から雄略天皇とみるのが妥当だと思う。
そのなかでもとくに重要なのは、378年に南京に着いた倭王武(雄略天皇)の上表文で、大和朝廷としての日本国家の建国過程についての歴史認識を明快に述べている。それによると、倭王武の先祖(応神天皇以前ということになる)は、畿内から出て、東日本、西日本、それに朝鮮半島のそれぞれ数十カ国を征服して倭国(自称でなく中国側の呼称。自称はヤマト)を成立させたとしている。
これは、『日本書紀』による、崇神天皇から応神天皇までの時代における大和朝廷の発展過程に符合するし、高句麗王が建立した好太王碑とも矛盾がない。だとすれば、それを疑う理由がそもそもないのではないか。これを前提に、矛盾がないように邪馬台国を位置づけたら十分である。
『日本書紀』では帝王の寿命について、王朝の古さを強調するために非現実的に長くしている。それゆえ、それぞれの天皇の事績や家族関係を参考に補正・短縮しなくてはならない。そうすると、崇神天皇は、265年に邪馬台国としての最後の使節を送った後に音信が途絶えた卑弥呼の宗女(おそらく養女)である「壹與」と同じ世代になる。
そして、ヤマトタケルの活躍で九州や東国に進出し始めたのが300年前後。そして、仲哀天皇と神功皇后が北九州を傘下に収めて列島統一をなしとげ、半島にも進出したのが、新羅の正史に倭軍の大攻勢があったとしている346年あたりということで、中韓の史書や考古学的な資料ともつじつまが合う。
つまり、大和朝廷の北九州への進出は、卑弥呼の死から1世紀近くたった後のことであって、大和朝廷と邪馬台国には直接接触の形跡はない。しいていえば、崇神天皇のとき出雲において親ヤマト派と親北九州派が対立したと『日本書紀』にあるから、このときにはまだ邪馬台国は健在だったのかもしれないといった程度だ。
そうであれば、日本国家の歴史と邪馬台国はなんの関わりもないということで、冒頭で触れた「日本の初代女王だった卑弥呼」などというものではない。
また、邪馬台国九州説の人の中には、それがのちに東遷して大和朝廷になったのでないかという人がいる。だが、神武天皇は『日本書紀』では日向の生まれとされているが、領土と多くの家臣をもつ王者などではなく、少人数で移動しながら力を蓄え、橿原で小さな国を建国したと書かれている。にもかかわらず、鎌倉時代以降の人々が「九州の王が大部隊をもって東征し畿内を征服した」と勝手にイメージを膨らませたことに惑わされた。
大和朝廷は、倭王武の上表文にあるように、自分たちは畿内発祥という認識であった。「神武東征は邪馬台国の東遷を下敷きにしたもの」というのは、『日本書紀』の誤読を前提にした発想だ。
もし、卑弥呼の子孫が東遷したのなら、九州で卑弥呼を初代女王として建国した国が東国を征服して日本を統一したと書いたはずで、日向に天孫降臨したと書くはずがない。卑弥呼が記紀における誰だったのかなどという議論も、邪馬台国は大和朝廷が北九州に現れる数十年前に滅びていた国なのだから、何の意味もない。。
また、五世紀の倭王武の上表文では、畿内発祥の倭国が何世代も前から列島全体と半島南部を支配していると書かれているのだから、九州王朝があったとか、日本では統一政権は脆弱(ぜいじゃく)で連合国家だったとかいうのもありえない。
あやふやで古く、日本側の歴史認識にも触れていない『魏志倭人伝』は信用するが、もっと新しく具体性の高い『宋書』は信用できないというのは、おかしな話だ。『宋書』が、『日本書紀』に書かれたことの多くを正しいと証明するため、戦後派の学者のお気に召さないのだろう。