邪馬台国は畿内ではなく
九州にあったといえる理由

 中国の史書で邪馬台国と呼ばれた国が日本列島に存在して、その女王・卑弥呼の使者が、239年に三国時代の魏の洛陽に現れたことは確実である。

 だが、魏の使節が卑弥呼の都まで本当に訪問できたとみるには、途中の様子の具体性もないので疑問だし、すくなくとも拝謁はしていなさそうだ。

 卑弥呼という名も、『魏志倭人伝』では、邪馬台国と対立していた狗奴国の男王の名前が卑弥弓呼(ひみこお)だというのだから、王者を表す一般名詞のようなものの可能性も高い。

 地名についても、ヤマトは「山に通じる」ともいわれ、奈良県の大和や福岡県南部の山門郡、あるいは邪馬台国が似ていることに特別の意味があるとする人もいる。地名の歴史にはある種の流行があって、離れたところで同時に出現することが多く、たとえば、江戸初期にはあちこちで松山とか府中とかが出現しているわけで、似ているから関係があるということにはならない。

 考古学者には畿内説支持が多いが、その理由は、纏向遺跡などの卑弥呼のころとおぼしき時代の立派な遺跡が、九州より大和に多いというだけだ。また、卑弥呼が径百歩(100メートル余り)の方墳に葬られたと『魏志倭人伝』に書いてあるが、その記述も正確であるかは分からない。

 大和にある箸墓古墳のような前方後円墳を『魏志倭人伝』で紹介されている卑弥呼の墓だという人がいるが、形が違うし、九州でも大型古墳が今後発見されるかもしれないから、これも畿内説の決め手にはならない。

『魏志倭人伝』の記述は、方角では九州、距離では畿内有利といわれる。だが、距離でも畿内説にはつじつまが合わないことも多い。なにより、帯方郡から邪馬台国は1万2000里と書いてあるわけで、それだと帯方郡から不弥国(筑豊地方か)までは、経由地ごとに詳細な距離が書いてあって総計1万700里なので、邪馬台国は不弥国から1300里、つまり100キロ余りの旅程にあることになり、普通に考えれば九州の中になる。