紀貫之が女性に仮託した日記文学(『土佐日記』)を創始したことはすでに述べたが、道綱母は、日本で最初に日記文学を書いた女性である。彼女の執筆した『蜻蛉日記』は、その後の女流日記文学である『紫式部日記』『更級日記』『和泉式部日記』などに少なからぬ影響を与えたといわれている。
『蜻蛉日記』は、道綱母の19歳から39歳(諸説あり)までの約20年間の出来事が綴られている。60歳まで生きていたようだが、後半生は語られていない。
その理由は書き出しを読むと理解できる。意訳して紹介しよう。
「世の中に多く出回っている古物語をちょっと読んでみると、みんな空言ばかりね。だったら、高貴な貴族の妻である私の身の上を書いた日記を公開すれば、物語なんかよりも珍しがってくれるでしょう」
とあるように、後に天皇の外戚(母方の親戚)として朝廷を牛耳った兼家との、夫婦のよしなし事が内容の中心になっている。
権力者にのぼった兼家が、かつて自分のことを妻として愛したことを自慢したかったのか。そんなふうに思ってしまうが、日記を通読してみると、けっこうボロカスに兼家のことをけなしたり、馬鹿にしたりしている。浮気に対する恨み節も散見する。どうも、彼女の執筆意図がいまいちよくわからない。兼家への復讐、つまりネガティブ・キャンペーンだという説もあるし、兼家が支援して執筆させたという説もある。
玉の輿に乗るチャンス
彼女は19歳(諸説あり)のとき、父の倫寧から急に縁談を持ちかけられた。その相手が、摂関家出身の兼家(26歳)だった。
兼家の祖父・忠平は、長年、摂政・関白をつとめ、朝廷で大きな力を持った貴族だった。兼家の父・師輔も時平の次男だったが、長女の安子を村上天皇の女御(妻)として入内(中宮、皇后、女御になる人が、礼式を整えて内裏に入ること)させ、憲平親王が生まれたことで天皇の外戚となり、この当時は右大臣をつとめていた。師輔には左大臣の兄・実頼がいたが、入内させた娘の述子が村上天皇の皇子をもうけず亡くなったので、師輔の家が摂関家の嫡流になる可能性が高くなっていた。ゆえに兼家は、師輔の三男といえども、公卿(現在の閣僚)になる将来が約束されていた。
一方、道綱母の父・藤原倫寧は、藤原北家の傍流の家柄であった。陸奥守、河内守などを歴任する受領(現地に赴く国司の長官)層で、財力はあるがそれほど位階が高くない。いわゆる中、下級貴族だった。一方、道綱母の母親については、源認の娘説と藤原春道の娘説があり、はっきりしない。
そういった意味では、中、下級貴族の家柄である道綱母にとって、まさに玉の輿に乗るチャンスだったわけだ。