平安時代の恋愛

 だが、道綱母は、兼家の求婚の仕方が気に入らなかった。平安貴族は、正式に結婚する場合にはきちんとしたルールが定められていた。プロポーズは、求婚の歌を相手の乳母や侍女を通して本人へ渡すのがルールとされた。なのに兼家は、いきなり倫寧に戯れのように「あなたの娘と結婚したい」とほのめかしてきた。それが非常識だと、道綱母は腹を立てたのである。

 さらに、その後に送ってきた恋文にもむかむかしている。安っぽい紙に悪筆で下手くそな歌が書かれていたからだ。無視しようとしたが、母が返事を書けとうるさいので、仕方なく「いくら手紙をくださっても、意味がありませんよ」とつれなく返書した。けれどその後も、たびたび兼家から歌が届いたが、彼女は、しばらく返事をしなかった。

 ちなみに平安時代の恋愛は、このように男が女に愛を告白する文や歌を送ることから始まる。ただし、これにもルールがあって、歌を受け取った女性は、必ず最初は申し出を断ることになっていた。その後、何度か男性から同様の和歌が送られ、ようやく返歌して合意する形だった。

 相手の想いを受け入れた場合、女はその旨を認めた返歌を男に届けた。もちろん男はその夜、女の家へやって来る。そして女の部屋へ忍びこんで想いを遂げるのだ。

 当時は相手の容姿より、歌の上手下手が恋愛成就のカギになった。そのため、両親や知人、あるいは作家に代作を頼む場合も多かった。ただし、容姿をまったく気にしなかったわけでもない。たとえば『源氏物語』には、美女だと評判の末摘花に興味を持った光源氏が、歌のやりとりのすえ彼女の部屋へ入って思いを遂げたものの、朝になって彼女の顔を見たら、面長の顔に先がふくらんだ赤い鼻がついており、彼女の下卑た笑顔を見て意気消沈するという場面がある。

 ちなみに道綱母は、歌人として優れた才能があるだけではなく、絶世の美人であった。『尊卑分脈』(南北朝時代に成立した系図集)には「本朝第一美人三人内也」と紹介されている。まさに才色兼備の人だったので、兼家の教養のなさが嫌だったのだろう。ただ、結局、道綱母は兼家との結婚を決めた。やはり高貴な家柄に引かれたのだろう。返事を長引かせたのは、自分を高く売ろうとする駆け引きだったのかもしれない。

 もちろん、両親の意向も強かったはず。兼家の末っ子道長の例をあげると、若い道長が源倫子に求愛したとき、彼女の父親が結婚に反対した。道長には何人もの兄がおり、出世の可能性が低かったからだ。逆にいえば、道長は有力な貴族の娘を妻にすることで自分の未来を切り開こうとしたわけで、結婚は栄達の手段でもあったことがわかる。なお、道長を気に入った倫子の母親が夫を説得して結婚へ導いたといわれ、母が娘の結婚に深く関わっていたことも読み取れる。