平安時代の結婚式
当時の結婚式は、夜に執りおこなわれた。新郎が行列をつくって女性の屋敷に現れ、先頭の松明の火を、新婦の家にかかげられた火とあわせる。これを「火合わせ」といい、そのあと新郎は屋敷に上がり、御簾の中の寝床へ新婦と入る。すると新婦の両親は、新郎の靴を持ち、その夜は懐に抱いて寝る。朝、自宅に戻った新郎は、昨日の感想を和歌にして新婦の屋敷へ使いを送る。その日も、新郎は昨日と同じことをし、3日目の夜にようやく披露宴となる。宴では新婦の家で用意した餅を食べる。これを「三日夜餅」といい、そのあと初めて新郎は新婦の親に対面する。それがすむと親族・仲間が集まっての酒宴となる。宴の終わりには、出席者へお金とお土産が渡される。宴の費用は新婦の両親が負担する。こうして結婚の儀式は滞りなく終了するのだ。
法律上(大宝律令)では、男は15歳、女は13歳で結婚できたが、適齢期は決まっておらず、60歳を過ぎて結婚する例もあった。男性が初めて妻を持つ場合、年上であるケースが多い。倫子も道長より2歳年上だった。ただ、2番目以降の妻は年下が一般的だ。
妻訪婚や招婿婚では、生まれた子は母の屋敷で養育された。それは皇子も同様である。摂関政治は、天皇の外戚が摂政・関白となって政務をになう政治だが、そうした形態が成立したのは、この結婚制度と関係がある。天皇や皇子は母の屋敷で育つので、必然的に外戚は影響力を行使できたのだ。ただし、平安中期以降になると、それが変化していくが、これに関しては別項で解説する。
夫・兼家の浮気
道綱母が結婚したとき、兼家にはすでに時姫という妻がおり、前年に長男(道隆)が生まれていた。さらに他に妻がいたかどうかは不明だが、少なくても道綱母は2番目以降の妻だった。ただ、時姫は道綱母と同じ受領層の家柄だったので、これから多くの子女をもうければ、十分、正妻の位置に立てる可能性はあった。実際、結婚の翌年8月、道綱母は息子(道綱)を産んでいる。これで立場は時姫と同じになったわけだ。出産のさい、兼家は懇ろにしてくれたと道綱母は書くが、その翌月、彼女にとって衝撃的な事件が起こった。
兼家が部屋を出た隙に、彼の文箱を開けてこっそり手紙の束を見たところ、その中に別の女に宛てた恋文を発見したのだ。現代風にいえば、夫がトイレに行っている隙にスマホを盗み見て、浮気相手とのラインのやりとりを発見したようなものだろう。
衝撃を受けた道綱母だが、「この手紙を見たことをわざと知らせてやろう」と考え、その手紙の端っこに「他の女に渡そうとした手紙があるので、あなたはもう私のところには来ませんね」という歌を書き付けたのである。これは、ちょっと怖い。書き付けを見つけたとき兼家がどう思ったかわからないが、10月になると、3日間ほど道綱母の屋敷を訪れないことがあった。もちろん、恋文の相手のところに入り浸っていたのだろう。けれど来訪した兼家は、いつもと変わらない態度で道綱母に接し、「あなたに逢わずにいられるかどうか自分の気持ちをためそうと思って……」(川村裕子訳註『新版 蜻蛉日記Ⅰ(上巻・中巻)現代語訳付き』角川ソフィア文庫)といい放ったという。
そんな兼家があるとき、「どうしても行かなくてはならない用事があるんだ」とそそくさと屋敷を出て行ってしまった。不審に思った道綱母が人を遣わして後をつけさせたところ、「町の小路のこれこれという屋敷に入り、そこでお泊まりになりました」との報告を受けた。