それからも兼家は、あちこちに愛人をつくり続けた。一方でプライドが高く嫉妬深い道綱母のもとにはあまり近づかなくなってしまう。元日には毎年顔を出していたのに、道綱母の家の前を素通りし、兄の愛人だった近江(藤原国章女)のところに通うようになった。しかも「どうやら彼女と結婚するようだ」という噂も聞こえてきた。

出家騒動で夫の気を引く

 こうした状況に絶望した道綱母は、この頃から頻繁に生きるつらさや死の願望、出家への憧れを『蜻蛉日記』に書きつけるようになる。

 そしてあるとき、兼家に宛てた出家をちらつかせる言づてを息子の道綱に託し、鳴滝籠りと称して屋敷から出奔してしまったのである。行き先は、般若寺であった。

 これを知った兼家は、説得の使者を般若寺に送り、さらに彼女の父・倫寧までも遣わした。そして、最終的に自身が現地へ出かけ、強引に道綱母を寺から引き戻したのである。

 妻が出家したとあっては、さすがに兼家も外聞が悪いから、彼女の自尊心が満足するかたちで騒動をうまく収めたのだろう。

 もちろん、これは道綱母の狙いでもあったはず。最初から出家するつもりなど、さらさらなかったのだと思う。本当に出家したいなら、兼家に黙って剃髪してしまえば済む話だ。そもそも鳴滝籠りすること自体を伝えていることがおかしい。

 かまってほしいという甘え心に加え、自分が権力者の兼家にどれだけ大事にされているかということを人びとに見せつける戦略だったような気がする。兼家の寵妃としてちやほやされた栄光の過去が忘れられなかったのかもしれない。そういう意味では、道綱母は、かなり面倒くさい女である。

 さらに翌年、彼女はスゴいことを思いつく。夫の兼家が別の愛人(宰相兼忠女)に生ませた娘を、実母と交渉して養女にしたのである。女児なので、この子が天皇に輿入れすれば、兼家の権力はさらに増長する。きっと、自分に振り向いてくれるかもしれないという道綱母の計算が働いていたように思える。

 だが、そのもくろみはうまくいかず、翌年、38歳になった道綱母は広幡中川のほとりに移住する。これ以後、兼家との関係は絶えたようで、日記も翌年で途切れている。現代でいえば離婚が成立したのである。天延元年(973)のことであった。