教養を身につけると、
高い次元からのメタ思考ができる
――日本社会では数年前から、「教養」の大切さが再考されるようになっています。本書でも、「教養とは何か」と提示されています。
来年、教養の本を書こうと思い、ネットの連載で教養についていろいろ書いているのですが、 教養というのは定義が共有されていないですね。浅いレベルでは、「教養としての世界史」などと言うように、「入門」とか「全然知らない人でもこれを読めばわかります」という意味の教養から、リベラルアーツを教養と言う場合もありますし、修養のような人間のあり方を教養と言う人もいる。統一された定義はないと思っています。
私の場合、主体と客体というように見たときに、客体としての教養という捉え方はしていません。客体としての教養というのは、端的に言うと知識のことです。単なるクイズ王が「教養がある」などと言われるように、それは多くの知識を暗記しているというだけのこと、いわゆる物知りのことです。一方、 私にとって大事なのは、主体としての教養です。それは、生き方そのもの。その人の在り方が教養だと思うのです。
その人の在り方を作るために、本を読んだり経験を積んだりするわけで、その主体と切り離された形での教養は、私は興味がない。
ハーバード・ビジネススクールの教授だったクレイトン・クリステンセンの『イノベーション・オブ・ライフ:ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ』(翔泳社)も、私が感銘を受けた一冊です。そこで彼は、「人生を評価する自分なりのモノサシを持ちなさい」と説いています。自分の中にモノサシを確立して、それに基づいて人生を生きる。モノサシ、すなわち自分の行動の基軸を作る。このことも教養だと思います。
――読書を通して追体験とか疑似体験ができるということで、読書と教養のつながりがあるということですか。
本書の3章で書きましたが、私は読書至上主義ではありません。とにかくひたすら本を読むのがいいことだというような人もいるじゃないですか。でも私は、読書は人との出会いと同じだと思っています。素晴らしい人と出会って、その人との関係性の中から新しい自分が生まれてくるということであれば、これは1万冊ぐらいの本を読んだことに匹敵すると思うのです。
人間というのは、人間との関係性において新しいステージに入っていける。人との出会いによって、新しい自分が再構築されていく。人間との関係性において、初めて人間というのは人間であり得るのだと思っていて、その出会いの一手段として本は優れていると言っているのです。本という手段が何かの上位概念にあるとは考えていません。
――「より高い次元からのメタ思考ができる教養を身につける」とも本書では書かれています。
そうですね。まず自分の考え方がないと、ものを考えられませんということを最初に書いて、 ただ、その考え方はある意味で自分をかえって制約するものになりますということが次に言いたいことなのです。先に述べたように、自分の中のモノサシがあるわけじゃないですか。それは経験を通して自分の中に作り上げていくものですよね。作り上げたモノサシが、自分の考え方の基軸になっていく。
ただし、 静態的にそこにとどまっていると、 だんだん今で言う「昭和のおじさん」のように、昔の価値観にとらわれて、新しいものを受容できなくなっていく。
だから、自分の中のモノサシが今の時代や環境の中で唯一絶対なものなのかを疑ってみる。アップデートしていく。ローリングでどんどん見直していくという、不断のプロセスが重要だと思っています。
いろいろな本を読んで、こういう考え方があるな、これは自分の考え方と同じだと思うことがあるし、違うと思うこともある。それらを、ヘーゲルの弁証法的に考えていく。ヘーゲルは、人間の精神は、社会との相互関係の中でスパイラル上に高まっていって、最後に絶対精神に至るというようなことを言うのですが、絶対精神に至るのかどうかわからないにしても、そのように弁証法的に進化していく、あるいは変化という表現の方がいいかもしれませんが、そういうことを意識的にできることが教養だと思います。
――その前提として「無知の知」の自覚を諭していますね。
自分は何もかもわかっていると思ったら、人はもう学ばないですね。業績のある立派な先生で、物事をよく知っているという方が、 仮にエスタブリッシュされた偉い先生としてその場にとどまっていたら、進歩しないと思うのです。進歩が止まって、神格化されていく「偉い人」っていますよね。何かわからないけど偉そうだなという人が。 そういうのは、私から見ると、進歩が止まった人という気がします。自分を疑う機会を放棄してしまうと、それ以上のものにはなり得ない。そういう人ばかりの社会だと、共通の理解を作る土台が失われてしまう。でも、中年の男性には、俺の方が偉いだろうというマウンティング好きな人が結構多いですよね。
――固定観念にとらわれると、そこから抜け出せなくなってしまうことは、若くてもありますよね。
それが思想や宗教の恐ろしいところですね。とらわれすぎると、それそのものになってしまって、あなたはどこにいるのですかということになってしまう。「論破!」みたいな話も、同様です。「相手を論破したから、なんなのか?」と思います。その発想からは、何も生まれません。
――『夜と霧』と『自省録』に共通する要素として、ストア哲学について書かれていました。
ストア派哲学の考え方は、端的に言うと、自分がコントロールできないものに意識を集中するのではなく、自分がコントロールできるものに意識を集中しましょう、ということだと思います。今この瞬間に集中しましょう、と。起こってしまった過去をくよくよ悩むのでなく、起きていない未来にびくびくおびえるわけでもなく、 今自分ができることは何かということだけに集中すれば、心を乱されることがなくなる。
フランクルが苦難に対峙(たいじ)する考え方は、ストア派哲学のそれと同様で、彼が強制収容所を生き延びられたのはまさにそういう考え方によるものだと思います。
例えば1944年にドイツの敗戦が濃厚になってきて、クリスマスには強制収容所からみんなが解放されるといううわさが所内に流れましたが、実際にはクリスマスが過ぎても解放されなかった。その結果、うわさを信じて解放を楽しみにしていた人が、絶望して亡くなったという話が書いてあります。将来への期待が、唯一の生きる希望だったからです。でも、フランクルはそのような根拠のない期待は持ちませんでした。限られた環境の中でも、今、自分にできることが何かあるはずだと考えるのです。それで強制収容所の苦難を乗り越えた。
ストア派哲学の言うように、自分にコントロールできることとできないことはそんなに明確に分けられないだろう、現状追認ではないのか、と言う人もいます。批判しようと思えばいくらでも批判できるとは思うのですが、フランクルは実際に自分が苦しかった時にどういう考え方で生き延びられたかを書いているのです。それが、25年前に苦境に立たされた当時の私にとって、最も大きな心の支えになったのです。
*この続きの後編は、明日、公開いたします。
多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長、一般社団法人100年企業戦略研究所所長。東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、東京大学 Executive Management Program(東大EMP)修了。日本興業銀行(現みずほ銀行)、ゴールドマンサックス証券、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員兼最高財務責任者(CFO)、アクアイグニス取締役会長などを歴任。現在は、社会変革推進財団評議員、川村文化芸術振興財団理事、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事兼アート委員会共同委員長、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、ボルテックス取締役会長、経済同友会幹事、書評サイトHONZ レビュアーなどを務める傍ら、資本主義の研究をライフワークとして、多様な分野の学者やビジネスマンと「資本主義研究会」を主催している。『読書大全―世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP社)、『ファイナンスの哲学―資本主義の本質的な理解のための10大概念』(ダイヤモンド社)など著書多数。