宇沢弘文の
『社会的共通資本』の意義
――本書で、アダム・スミスの他に一人の学者について一節を設けて論じているのは、「宇沢弘文の『人間のための経済学』」です。
宇沢弘文先生は1956年、28歳の時に渡米して、数理経済学の分野で多くの論文を発表し、36歳でシカゴ大学教授に就任します。「ノーベル経済学者に最も近い日本人」とも言われていました。しかし、米国のベトナム戦争に反対して、68年に日本に帰国します。
その後、宇沢先生は東京大学で経済学を教えると同時に、自動車の排気ガスや水俣病などの公害問題、成田空港問題などの解決に向けての社会運動に積極的に関与していきます。
宇沢先生の本も多く読みました。私と同様に、先生も「経済学は人間を幸せにしているのか?」という疑問に行き当たったのではないでしょうか。同書の中では、「なぜ社会の中心に人間が置かれずに、人間が市場経済という鋳型に嵌(は)め込まれなければならないのか?」「資本主義というシステムの中に、人々が本来の人間性を取り戻して平和に暮らせる仕組みを埋め込むことはできないか?」といった問題意識や危機感が見て取れます。
宇沢先生にとって重要なテーマは、いかにして経済学に社会的な観点を導入できるかであり、そこから導き出されたのが「社会的共通資本」の考え方です。それは、「一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置」(『社会的共通資本』岩波新書)です。大気、水道、教育、医療など、市場原理にゆだねてはいけないもののことです。
そして、社会的共通資本の理論によって宇沢先生が守ろうとしていたのは、「人間の尊厳」です。私も、「人間」にもう一度、光を当てて考えないと、資本主義は自壊するのではないかと考えてきたのですが、それは今、地球環境の限界という形で顕在化してきています。
――本書では、「『資本主義』社会を『人間』社会として見る」という節を最後の方でまとめられていますね。
人類はかつて、有害物質を海にまき散らしても、海はとても大きいからそれを薄めてくれるし、浄化してくれると考えてきました。地球上にはフロンティアがいくらでもあり、ここまでは自分たちの関心事だけれど、その向こう側は放っておいてもなんとかなるという世界観でした。それが今やグローバル化の時代に突入して、実は地球はとても狭く、有限だったということが認識されるようになってきました。その中で、2015年からSDGs(持続可能な開発目標)を国連が提唱し始めます。このSDGsの考え方は、宇沢先生の社会的共通資本に通底するものだと思います。
歴史を振り返ってみると、最初はうまく機能していた社会システムや政治体制も、いつの間にかそれが人間の上位概念になってしまい、それによって人間が疎外され、人間が不幸になっていくということが繰り返されてきました。人類の長い歴史を見てみると、ある「枠組み」に全面的に依存して自ら考えることを放棄してしまうと、人間は必ず不幸になるということがわかります。
ですから、常に、人間の視点から、枠組みを見直し続けていく必要があると思うのです。例えば、共産主義(コミュニズム)というのはソ連の失敗により完全に時代遅れになったと思われていますが、今日、東京大学准教授の斎藤幸平氏のように、コミュニティーを中心にした社会を構築することだとして再定義する動きも見られます。地球環境の限界を世界が認識する中で、脱成長の循環社会のようなものを想定し、提唱しているわけです。彼の著書『人新世の「資本論」』(集英社新書)が話題となり、大ベストセラーになったのは、時代の流れではないかと思うのです。
その意味では、宇沢先生は時代のかなり先を行っていたと言えます。もし彼が今生きていたら、世界が彼の考え方に耳を傾けていたと思うのです。(了)
多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長、一般社団法人100年企業戦略研究所所長。東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、東京大学 Executive Management Program(東大EMP)修了。日本興業銀行(現みずほ銀行)、ゴールドマンサックス証券、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員兼最高財務責任者(CFO)、アクアイグニス取締役会長などを歴任。現在は、社会変革推進財団評議員、川村文化芸術振興財団理事、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事兼アート委員会共同委員長、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、ボルテックス取締役会長、経済同友会幹事、書評サイトHONZ レビュアーなどを務める傍ら、資本主義の研究をライフワークとして、多様な分野の学者やビジネスマンと「資本主義研究会」を主催している。『読書大全―世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP社)、『ファイナンスの哲学―資本主義の本質的な理解のための10大概念』(ダイヤモンド社)など著書多数。