文春は絶対に正しいわけではないし「たかが週刊誌」
断っておくが、文春がデタラメだとか言っているわけではない。文春には友人や知人もいるし、元週刊誌記者として見ても、彼らがいかに綿密に取材をして裏取りをしていくのかもよく知っている。
が、だからといって「絶対に正しい」というわけではない。
週刊誌記者ならばわかると思うが、自分が実際に取材したことと、かなり異なる話が文春の誌面に出ていたことなどちっとも珍しくない。どちらが正しくてどちらがガセという話ではなく、週刊誌報道は「ネタ元」(情報源)からのリークに基づくので、その「ネタ元」次第で世界が180度変わってくるものなのだ。
実際、堀江貴文さんや東国原英夫さん、辛坊治郎さんなどかつて「文春砲」の餌食になった著名人が指摘しているように、過去には文春が名誉毀損で敗れたケースもある。
つまり、「文春砲」は確かに取材力などで他メディアを圧倒していることは間違いないのだが、一方で「たかが週刊誌」なのだ。そこに掲載されている記事だけをもってして、仕事が奪われ、本人や家族がののしられ、社会的制裁を下される「市民裁判」のようなものであってはならない。それは筆者が勝手にそう考えているわけではなく、「文春砲」の生みの親である新谷学・元編集長もおっしゃっている。
【新谷】落語家の立川談志さんのセリフではないですけど、人間の業を否定するのではなく、肯定したいんですよね。人間って、愚かだけど、でも、だからこそ愛らしい。誤解されがちなんですけど、芸能人が不倫をしたからといって、われわれがそれを断罪するつもりはないんですよ。芸能活動をやめろ、とか。
(中略)
【新谷】私たちに人を裁く資格なんてない。われわれだって間違いは犯すわけですし。人間、そんなに偉いもんじゃないんですよ。だから、そこは書く人間にはいつも言っているんです。「トドメは刺すなよ」と。
(プレジデントオンライン、2021年9月10日)
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今の雑誌系週刊誌の草分けである「週刊新潮」の生みの親・斎藤十一氏は創刊の基本姿勢を「俗物主義」としてこう述べた。
「どのように聖人ぶっていても、一枚めくれば金、女。それが人間」
「だから、そういう人間を扱った週刊誌を作ろう、ただそれだけ」
筆者も25年前、週刊誌記者になった時、先輩記者と飲みに行くたびに耳にタコができるほど同じようなことを言われた。そんな「たかが週刊誌」が、近年の「文春砲」ですっかり「正義の裁き」として一部の人が持ち上げていることには、個人的には違和感しかない。
しかも、驚くのはかつて週刊誌を「低俗」「イエロージャーナリズム(扇情的ジャーナリズム)」なんて蔑んでいた「テレビや新聞出身のジャーナリスト」まで「文春にはこう書いてあるぞ!真実はひとつだ!」なんて感じで松本さんを叩いていることだ。
仮にもジャーナリストを名乗っているのだから自分自身で、被害を訴えている女性たちにインタビューをして、確認作業をしたうえで「真実」だと信じて、松本さんを厳しく断罪するのならまだわかる。しかし、週刊誌で働いたこともない、記事をつくるプロセスも知らぬ人間たちが、「文春によれば」を錦の御旗にするようになったことに軽い恐怖を覚える。
文春が人権侵害しているように見えるが、実は後追いメディアや世論が勝手に先鋭化して「市民裁判」や「集団リンチ」という暴走を始めているからだ。
週刊誌に「疑惑」を書かれた時点で、仕事や社会的地位を失う社会は、新谷氏の言葉からもわかるように「文春」自身も望んでいない。なぜなら週刊誌に情報をリークする「ネタ元」は善意の第三者だけではなく、「報復」や「敵を引きずり下ろす」という意図の人もたくさんいるからだ。
松本さんという「人気者」が活動中止に追い込まれたことで、「文春こそ正義」という極端な価値観がこれまで以上に強まる恐れもある。それは、文春に「疑惑」を報じられた人は、どんなにボロカスに叩いてもいいという「集団リンチ」が増えていくということだ。
ちょっと冷静になって、日本人は「文春はたかが週刊誌」という大前提に立ち戻るべきではないか。
(ノンフィクションライター 窪田順生)