少し冷静に状況を分析してみることにします。

 Aさんは、Bさんと一緒に公共財ゲームに参加し、Bさんの投資額が少なかったことに憤って罰を与えたとします。この罰によってBさんはある程度心変わりして、次回はより多くの額を公共財へ投資するようになるかもしれません。しかし、実験設定のところで述べた通り、公共財ゲームで対戦する相手は毎回シャッフルされ、AさんはBさんに二度と会うことができません。Bさんが改心し協力的になったことで利益を上げるのは、その次の回にBさんと公共財ゲームを行うCさんやDさんたちであって、Aさんは全くその恩恵にあずかることはできないのです。

 このように、Aさんが罰をすると、他人であるCさんやDさんが利益を得るので、この罰のことをフェアらは「利他的罰」と名づけました。Aさんの罰行動は、Bさんの改心を通じ、あたかもCさんやDさんへの利他行動に見えるからです。

 なぜヒトはこのような利他的罰を行ってしまうのでしょうか? その理由については、いくつかの説が提唱されています。

 たとえば、ヒトの祖先が暮らしていた環境においては、罰を与えた相手と二度と出会えないという不自然な状態や、罰を与えた評判が全く伝わらないという不自然な状態は、少なかったと言っていいでしょう。そのような祖先の環境では、「非協力者には罰を」というルールは十分に適応的です。なぜならその後に互恵性が期待できるからです。ですから、こうやって進化した適応的な反応が、実験室という不自然な環境の中でも同じように発揮されてしまい、人は利他的罰をしてしまうのだ、という解釈が可能です。

 いや待ってくれ、被験者は自分の置かれた状況を実験前に理解していたではないか、「非協力者には罰を」というルールをこの実験設定において使うことが損であることを、被験者は知っていたではないか、という反論も考えられます。

 しかし、頭ではわかっていても行動に出てしまうことがないとは言い切れません。昔の環境では適応的だった行動が、現代の不自然な実験室環境においても間違って発揮されてしまったために、利他的罰のように見える現象が生じたのだと考えるこの仮説を、「大きな間違い仮説」とよびます。

書影『協力と罰の生物学』(岩波科学ライブラリー)『協力と罰の生物学』(岩波科学ライブラリー) 大槻久 著

 頭でわかっているのに体でわかっていないというようなことが、理性的な人間に起こりえるものか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 でも、我々は果たしてそこまで理性的でしょうか?

 フェアらは感情という側面に着目して、この利他的罰を説明しようとしています。この実験の被験者たちは、投資額が極端に少ない人を見たとき、強い怒りの感情を覚えたと回答しました。感情は、もともとは状況に対して即座に反応するための適応と考えられます。そして怒りは、ときに理性的な判断とは逆の行動を引き起こすことがあります。理性的に判断した場合には損であっても、感情という回路が我々に利他的罰をとらせるのかもしれません。