今を笑っていられるなら
その瞬間だけは幸せなのだ
彼が住んでいた202号室の玄関ドアには、「電気供給制限の予告通知」と太いゴシック体で書かれたチラシが貼られていた。通知文全体が印刷されているほかの予告通知と違って、供給制限の予定日だけが目に付くように、サインペンで直に書かれている。
おそらく悪質料金滞納者に対応する担当者がいて、彼らが滞納者の家にまでやってきてはチラシを貼り付け、日付まで書いていったのだろう。日付を見て気づいた。ビル管理会社の職員から知らされた死体回収の日から逆算してみると、電気供給の中断予定日と自殺した日が重なる。ぼんやり見えていたものが明瞭になってきた。
この瞬間から私の思いは、運動場のように巨大な泉の中へと引きずり込まれていった。
この非情な都市において、電気を断つという行為は、結局死んで何とかしろという無言の自殺勧誘なのではないのだろうか。
なぜ韓国政府は、国民の繁栄と維持のためにという大義名分を掲げて、ライフラインである電気を断ち切り貧者を自殺に追い込むシステムを取っているのか、考えれば考えるほどわからなくなってくる。
もっぱら貧者が独りで死んでいく。貧しさと孤独は仲の良い旧友のように、肩を組んでともにこの世を巡礼しているようにも見える。賢者が来て、そんな考えはただ貧しさに目の慣れた者たちの固定観念にすぎないのだと悟らせてくれたらどんなにいいだろう。
生きるか死ぬかをめぐって苦悩させるほどに人間を窮地に追い込む、重大で深刻な問題。死者の最後の瞬間、最後の居場所にまでやってきて、暗鬱でじとじとしたシミ跡を残していく貧しさと孤独が、いったん死の域に到達した瞬間からは何の価値もなくなり、取るに足りないものとして笑い飛ばせるものになってくれるなら、どんなにいいだろう。
古びた家財道具を処分しながらほんの一瞬、死んで軽い気持ちになり、心配もなくなって穏やかな表情をしている青年の顔を思い浮かべてみる。
キム・ワン(著)蓮池 薫(翻訳)
「ふん、所詮貧困なんて、一瞬垂れ込む暗雲のようなものさ」と思い、歩みも軽くなる。
ある日予期せぬ風が吹いてきて雲を晴らし、太陽がひょっこりとその素顔を見せてくれるだろうと、少しだけ信じている。
貧しいからといって、あまり深刻に考えないようにしよう。あなたが賢い人なら、いつも深刻な顔をしているほうが損をするってことぐらい、知っているはずじゃないか。どっちにしろ、財布が空でもおなかがいっぱいで今を笑っていられるなら、その瞬間だけは幸せなのだ。人間なら誰しもいつかは死ぬという事実だけは、絶対に変わらないのだから。