孤独死や不審死、自殺などがあった住居の清掃を行う特殊清掃員。韓国で特殊清掃員として働く著者は、現場に残された人々の苦しい日々や思いを目の当たりにしてきました。数々の孤独死現場を見てきた著者が、人々が貧しさと孤独で追い詰められていく過程を解説します。本稿は、キム・ワン『死者宅の清掃』(実業之日本社)の一部を抜粋・編集したものです。
高級マンションで
孤独死する人はいない
この仕事を続けてわかったことは、独りで死んでいくのは主に貧者だということだ。
ときどき金持ちが1人暮らしの末に自殺することもあるにはあるが、そういった自殺も孤独死の範疇に含めるかどうかは、世界的な学者たちの中でも意見が分かれているので、ここでは論じないことにする。
ただ、高級マンションや豪華な一軒家に高価な家具を残したまま、いわゆる宝の中で、遅れて発見される孤独死はいまだかつて見たことがない。
呼ばれて駆けつけたところには、大体貧しさと孤独が影を差している。貧困の黒い木の葉がはらはらと落ちて、辺り一面に敷きつめられているようだ。長い間私の目が貧しさに慣れてしまったために、何を見ても貧困の象徴のように見えてしまうのだろうか。
あるときは、死者の郵便箱に挿さったまま半分に折れ曲がっている告知書や請求書すら、貧しさゆえに背中が曲がってしまった人間のように見えたこともあった。私の住んでいるマンションのお隣のポストに挟まっている告知書と何ら変わりのない光景なのに、私の中にある固定観念が見る目を変えてしまっている。
私の人生において豊かさや繁栄は、バスの窓の外の風景のように、手の届かない、はるか遠くを過ぎ去っていくものでしかない。分水嶺の上で巨大な雲を背にした太陽の黄金の輪のように、豊かさはいつも気が遠くなるほど、はるかかなたから私を見下ろしているだけで、雲を押しのけて真の素顔を見せてくれたことなど一度もない。
来る日も来る日も貧しい家を掃除しているからなのか、休日に町へ出かけているだけでもいたるところで困窮のにおいを嗅ぎつけてしまうようになった。私の視線が達するところにはいつも貧しさの象徴があくびをしながら起き上がろうとするのだ。
私が生きているこの世界では、貧しい者はますます貧しくなり、金持ちはますます繁栄を招き入れている。
貧しくなれば必然的に孤独になる。困窮した者とは家族も連絡を絶つようになる。隣家から漂う異様なにおいを不審に思う者の申告によって、死体はとき遅く発見され、警察はそのときからようやく死因を究明し、遺族を捜す。独りで死んだまま放置される事件が増え、韓国ではいっとき社会問題となっていた。
孤独死の先進国である日本の為政者たちは、「孤独」という鑑定判断の含まれた語彙である「孤独死」の代わりに、「孤立死」という表現を公式用語として使い始めている。死んだ者が置かれた「孤立」という社会的状況に、より注目したのだ。
しかし、孤独死を孤立死に呼び替えたとして、死者の孤独が少しでも和らぐわけではない。冷徹に言えば、死者ではなく、それを発見する側の心苦しさや負担感を少しでも減らそうという試みにすぎない。