テレビ局の場合、当然ながら出版社のように長く深い繋がりを原作者と持っていないので、原作者の気持ち、あるいは作品のどの部分を大切にしているかについて、無神経になる確率が高いのも事実です。だからこそ出版社のライツ担当者は、相当作家側に立って、交渉する義務があると考えます。
今回、芦原妃名子さんの『セクシー田中さん』という作品についてのこだわりを担当者が十分把握しており、脚本家がかなりの「原作クラッシャー」であるという情報を事前につかんでいれば、その時点で映像化を断るか、最初から原作を大事にするタイプの脚本家を選ぶことを、彼女に勧めるべきだったのではないでしょうか(念のために言うと、私は脚本家を否定しているのではなく、こういうタイプの脚本家も「小説と映像は別物」と考える作家にとっては必要だと思っています)。
私は文春時代、映画会社の東宝とは素晴らしいお付き合いができていました。数カ月に一度、出版局の部長クラス(これは小説だけでなく、ノンフィクションや料理本などの部門の部長も含みます)と、東宝の主要なプロデューサークラスで定期的に会議を開いていました。
私が驚かされたのは、東宝の社員は文春の小説誌や雑誌連載をくまなく読んでいて、「〇〇さんの作品はいつ終わりますか?」「文庫の予定はいつですか?」と詰めてくることです。彼らは、「文庫化するときが映画化するとき」と大体の目処を立てているので(単行本の売れ行きを見てから映像化を決めるという方針もあったかと思いますが)、そのときに予定が空いている主役級の俳優の日程や、新人起用のタイミングまで議論して会議に臨んできます。それくらい情熱があったので、こちらは原作を預けてもあまり心配はありませんでした。
ライツ系、デジタル系人材の重用で
出版社の現場の空気は激変している
しかし、私が「セクシー田中さん問題」を予想された事態だと冒頭で述べたのは、ライツ系やデジタル系の世界が出版界に入ってくるにつけ、この空気感がわからないキャリア採用などの社員がすごい勢いで増加しているからです。
一時「出版不況」が騒がれましたが、コミックを持つ大手の講談社、小学館、集英社などは、ここ数年空前の好景気と言ってもいい数字をあげました。となれば、アニメ化、映像化、ゲーム化、キャクター化を促進せよという空気は強まり、ライツ系(小学館の場合はメディア担当というようです)の人々の発言権も高まり、また利益部門として会社が重用することになります。
今回の「セクシー田中さん」問題は、そんな出版界の流れの中で起きました。小学館の現場の編集者たちが必死で発信しようとした「良心」を信じたいですが、実際に原作者と出版社とテレビ局の間で何が起こったかは、彼らの声明にはほとんど記されていません。