対外的には立派でも内部では嫌われるリーダー
昭和の時代の有力政治家・田中角栄(第64・65代内閣総理大臣)は、ライバルの中曽根康弘(第71・72・73代内閣総理大臣)のことを「富士山のよう」と例えたといわれている。この比喩は、中曽根が外から見ると品格があり、立派にみえるが、実際には政治的な野心や利益追求に強く動かされていて“美しくない”という意味である。当時、富士山は登ってみるとゴミだらけでひどい状況にあった。
この人物評はさておき、世間には「かつての富士山」のようなリーダーが、今もあちらこちらにいる。
昨今、企業の有名経営者や業界の第一人者などが、実際には人格的に問題があったり、現在の倫理基準に照らして明らかに不適格な言動をしたことが明るみに出たりして、トップの座から引きずり降ろされるという事象は珍しくなくなっている。
このようなタイプのリーダーは、おおむねメディアや公の場での印象はすこぶる良い。聞き手の聞きたいこと、喜ぶこと、面白いこと、言ってほしいことを巧みに話せる機知があるからだ。ところが、こと内部に目を向けると部下やチームメンバーからの支持を得られず、多くの社員が本当は嫌っているというケースがある。そして、しばしば、部下のニーズや感情を無視し、組織内の信頼や士気を損なってしまう。また私生活に大きな問題があることが多い。外部のイメージと内部の実態が大きく乖離(かいり)しているのだ。
では、なぜそんな人を組織のリーダーとしていただいているかといえば、当人の社会や業界に対する発信力が大きいからである。下手をすると会社や商品が大量の情報の中で埋もれてしまう現代にあっては、リーダーの発信力は、それだけで大きな価値を持つ。
このようなリーダーを抱えている組織は、外部向けの良いイメ―ジを維持するために、リーダーの「やらかした」諸問題を徹底的に隠す。迷惑をかけた相手にさまざまな補償をする。具体的には、広告費で黙らせる、ネガティブな記事を書いた記者には必要な情報を流さない、高額の袖の下を包んで沈黙してもらう……といったことが、かつてはある程度有効な方法だった。
ただ、時代が急速に変わってしまった。