幻となった渋谷から箱根までの
「東急ターンパイク計画」

 面白いのは当初、城西南地区と都心を結ぶ交通機関として「ターンパイク」、つまり有料自動車専用道路を整備する構想だったことだ。本格的なモータリゼーションはもう少し後のことだが、近い将来にアメリカと同様に自動車時代が到来すると考え、渋谷から城西南地区を経由し、江の島、小田原を経由して箱根に至る「東急ターンパイク計画」を計画したのである。

 だが、建設省は民間による高速道路建設に反対し、計画は難航した。また、自動車が普及前の時代であり、沿線住民は鉄道整備を強く望んだ。東急も将来的に利用者が増加すれば鉄道を整備するつもりだったので、鉄道を軸に開発を進める方針に転換(後に箱根ターンパイクのみが実現する)。

 こうして東急は1956年9月、「第1期線」溝ノ口~長津田間の免許を申請。翌年に「第2期線」長津田~中央林間間を追加した。動き出した田園都市線構想には、ひとつ大きな問題があった。それが二子玉川から都心へのアクセスだった。

 すっかり死語になったが、かつて「新玉川線」という路線があった。現在は渋谷~中央林間間の全てが田園都市線だが、2000年まで二子玉川~中央林間間が田園都市線、渋谷~二子玉川間が新玉川線だった。この新玉川線こそが、多摩田園都市の足として建設された第二の新線である。

 新玉川線というからには(旧)玉川線にも触れねばなるまい。玉川線は多摩川の砂利輸送を目的として、1907年に渋谷~玉川(現在の二子玉川)間で開業した路面電車だ。世田谷の足として親しまれたが、走行する国道246号線の渋滞が悪化するにつれ、廃止を求める声が高まった。

 東急も限界を感じていた。車体が小さい路面電車は輸送力が限られており、道路上を低速で走るため、わずか9キロに30分以上を要しており、都心アクセス路線としては機能しない。そこで東急は1956年7月、田園都市線の免許申請に先立って、渋谷~二子玉川園(2000年に二子玉川に改称)間の新線「新玉川線」を出願した。