4月9日で東急田園都市線は全線開業から40周年を迎えた。渋谷から中央林間まで31.5キロを結ぶ田園都市線は複雑な成り立ちを持つ。首都圏屈指の通勤路線がどのように形成されてきたのか、歴史を振り返りたい。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
鉄道整備と沿線開発で
私鉄界の「東の雄」に
田園都市線の歴史は1960年9月、東急大井町線の延伸区間として溝ノ口(後に溝の口に改称)~中央林間間20.1キロの免許を取得したことに始まる。路線名の「田園都市」は、渋沢栄一らが創設した田園都市株式会社に始まる東急のルーツであり、精神そのものだ。
1923年に設立した子会社・目黒蒲田電鉄(現在の目黒線・東急多摩川線)が目黒~蒲田間に鉄道を建設し、田園都市会社が洗足や多摩川台など東京市南西部に住宅地を整備。高級住宅地として名高い「田園調布」もこの過程で開発された。
続いてグループの東京横浜電鉄が渋谷~横浜間に現在の東横線を建設し、新丸子や菊名、日吉などの沿線開発に着手した。阪急電鉄創始者の小林一三が作り上げた、鉄道整備と沿線開発を中心とする私鉄ビジネスモデルを取り入れた東急は、私鉄界の「東の雄」として成長する。
しかし目蒲線、東横線の沿線開発がほぼ終了したことで、祖業である「田園都市開発」は停滞し、1950年の営業収益は鉄道とバスがほとんどを占めていた。そこで1951年に五島慶太社長が表明したのが、田園都市事業の復活、城西南新都市(多摩田園都市)計画だった。
戦争で一時、減少した東京の人口は復興とともに再び増加傾向に転じ、住宅不足が問題化していた。東急はこうした需要を取り込むべく、東横線と小田急線、国鉄南武線と横浜線に囲まれた一帯の建設に着手した。