「田園都市線」を名乗ったのは
実は大井町線が最初だった

 最初の新玉川線構想は、溝の口から田園都市線、渋谷から地下鉄銀座線への直通運転を前提としており、パンタグラフではなくレール脇の第三軌条から電気を取り入れる地下鉄規格で建設する想定だった。また高架橋は3階部分にターンパイク、2階部分に鉄道が通るという挑戦的な計画だった。

 だが23区内に鉄道を建設するのは非常に時間がかかる。東急は田園都市線と新玉川線の一体整備は断念し、田園都市線は通常の規格で先行して建設することになった。渋谷乗り入れを断念した田園都市線は大井町を目指すことになった。

 実は最初に「田園都市線」を名乗ったのは大井町線だった。溝ノ口から延伸する形の第1期区間は大井町線と一体的に運行するため、第1期区間に着工した1963年、一足早く大井町線を田園都市線に改称した。

 だが大井町線から渋谷方面に出るには自由が丘、目黒方面には大岡山で乗り換えが必要だ。池上線を経由して地下鉄6号線(都営三田線)に直通する構想もあったが、いずれにしても遠回りである。多摩田園都市の価値を高めるためには、交通の利便性を向上させる必要がある。

 そこで新玉川線構想が再度浮上し、銀座線のバイパス路線として計画された11号線(半蔵門線)に直通する計画が1966年に固まった。鉄道事業営業利益が15億円の時代に300億円以上の資金を投じる、まさに社運を懸けた大事業だった。

 新玉川線が本格着工した1969年5月に玉川線は廃止され、渋谷~二子玉川園間は代行バスが運行された。1977年4月の開業まで実に8年の間、渋谷~二子玉川園間は鉄道が途絶したのである。