北海道で「月刊ドラゴンズ」を定期購読
巨人・日ハムファンの中で孤軍奮闘

 北海道・小樽で生まれ育った山口だが、北海道に日本ハムが本拠地を移転するのは2004年。だから、1980年生まれの山口の幼少期には、まだ北海道をフランチャイズとする球団はなく、小学校でもクラスメートのほとんどは「巨人ファン」だったという。

 そんな中で、山口はたった一人、「C」と「D」がクロスした白いロゴのついた、ドラゴンズブルーのキャップをかぶり、小学校に通っていた。

「ドラゴンズ情報が全く入ってこないから」

 山口は父親に頼んで「月刊ドラゴンズ」の定期購読を申し込んだ。それが月1回、小樽にまで送られてくる。

「ホントに楽しみだったんです。それしか情報がなかったんで」

 テレビのスポーツニュースでも、勝ったか負けたかの結果しか流れない。だからこそ、よけいにドラゴンズの選手たちへの思いは募る一方だった。熱心に追い始めたのは、星野中日の頃だというから、1980年代後半のことだ。

「打つ方は、立浪監督が2番ショート、ゲーリー(・レーシッチ)、落合(博満)さん、宇野(勝)さんとか。ピッチャーで言えば郭源治さん、小松辰雄さん、小野(和幸)さんとか、そのあたりですね。すごく強かったころです」

 すらすらと、竜戦士たちの名前が出てくる。

 2006年の日本シリーズは、中日と日本ハムの対決。メジャーデビュー前で、北海道でバンド活動をしていた山口は「居酒屋でバイトしていました」。

 その働いていた店でも、日本ハムファンが集結して、テレビの前で大声援を送っていたという。しかし、中日に得点が入ると「僕だけ『よしっ』みたいなこと言って、北海道の人じゃない、みたいになってました」と笑いながら当時の孤軍奮闘ぶり?も明かしてくれた。

「一度ファンになったら、やっぱりブレないですよね。変わらないですよ。いい時も悪い時もずっと応援、一生応援。それも楽しまないとな、というのは感じますね」

 なので、ナゴヤ球場のフェンス広告も「出させて頂ける限り、継続させてもらえたらなと思っています」という。