「伝説の餃子の王将」ちょいボロだけど激ウマだった!神コスパの名店と稲盛和夫の深い縁とは? 写真の一部を加工しています Photo by Kenichi Ogura

「経営の神様」稲盛和夫と「庶民の味方」餃子の王将。一見、縁遠そうな両者が、実は深い縁で結ばれていたことをご存じだろうか? 弟の実氏らが立ち上げ、かつて和夫氏も餃子を振舞ったという伝説の「鹿児島餃子の王将」1号店を訪問した。(イトモス研究所所長 小倉健一)

「餃子の王将」にかけあった稲盛和夫

 10年以上前の「餃子の王将」は、フランチャイズでありながら、一般的なフランチャイズのビジネスモデルでは全くなかった。昔からの利用者はよく知っていると思うが、餃子の王将は個々の店舗でメニューが違っていて、店長の裁量で独自調理をしていたのだ。

 それがよくも悪くも、餃子の王将の個性を際立たせてきた部分がある。調理場の技術力が高いため、食材のロスが少なかったり、工場調理の料理が少なかったりという具合だ。

 しかし、2013年、社長となった渡邊直人氏の経営改革によって、調理法のマニュアル化が進み、ある程度ではあるものの、個店ごとの味わいも統一されつつある。それら経営改革は、一応の成果を見せている。

 2024年3月期第2四半期の売上高は497億4400万円で、同月比の過去最高売り上げを20カ月連続で更新しているのだ。「餃子の王将」の個性を保ったまま、近代化するという「二兎」追うことがどこまでできるのか、注目していきたい。

 さて、京セラ、KDDI(当時DDI)を創業し、日本航空を復活させたことで、「経営の神様」と呼ばれた稲盛和夫氏。そんな稲盛氏の弟である稲盛実氏が中心となって「餃子の王将」を鹿児島県でオープンしたのは、1978年のことだった。当時を振り返って、稲盛実氏はこう話している。

《7人きょうだいの次男の稲盛和夫は、末っ子の私の16歳差の「ちんけ(小さい)あんちゃん(兄)」だった。長男の「ふとか(大きい)あんちゃん」と比べた呼び方だ。和夫は京都から実家に帰ると、よく両親に仕事の話をした。その姿は幼い私にとって「頼りになるすごい存在」だった》(2022年11月6日、南日本新聞『「鹿児島餃子の王将」開店日に手伝いに来る頼りになる兄だった』)

 当時、末っ子の弟である稲盛実氏は、両親と暮らすために、稲盛和夫氏が創業した京セラの鹿児島川内工場を辞め、鹿児島市に戻ることになった。その際に、稲盛和夫氏が京都に本社のある「餃子の王将」にかけあって、のれん分けをしてもらえることになったという。