「自炊」は「自治」の問題でもある
自身の生殺与奪の権を確保せよ
國分 自治のためには、自分たちで、自分たちの生をまかなえなければならない。食材を集め、自分で食べられる形にすることは、人間が生殺与奪の権を誰かに奪われないために大事なことではないだろうか。その意味で、三浦君の『自炊者になるための26週』は、非常にポリティカルでもあると思うんです。
三浦 「何を取り入れないか」を吟味することもやはり大事で、さもなければ、一方的に誰かが売ろうとして宣伝するもの、「これはコスパが良くておいしいですよ」と押し付けてくるものを、いつの間にか、ただ受け入れるだけ、ということになりかねません。
國分さんは『民主主義を直感するために』という本も書かれていますね。街へ出て、食材を買って来て、調理し、ゴミをまとめて収集に出す。こうした循環を実践し、感じることで、たとえ、それ自体がすぐに環境問題の解消につながらずとも、環境問題に対して直感が及ぶということは、あると思います。
國分 そういえば、三浦君のこの本の中の「買い物」に関する章で、「目利きをするな、お店に任せろ」という名言がありますよね。台所に立って、「今日、何を作ろうかな」と思っても、たいてい何も思い付かないものです。ネットでレシピを検索するにしても、選択肢が無限にあって、頭がパンクしちゃいますよね。
三浦 そうなんです。「自由意思」では意外と献立は作れない。
國分 ところが、買い物に行くだけで、「これが特売」とか、「今日はこれがおすすめ」とか、教えてくれるので、作るものが一発で決まってしまう。献立というのは、実は、押し付けられるわけでも、全部自分で考えるわけでもなく、その中間に位置するまさに「中動態」なんですね。
三浦 今、海の近くに住んでいるのですが、実は引っ越しの決め手は、良い魚屋さんが近所にあったからでした。
そこで毎日、魚屋さんがおすすめしているものを買えるようになって、安くて新鮮でおいしいおいしい上に、献立で悩むことがほぼなくなりました。売り手の顔が見える関係で、魚屋さんと、半分、友だちのようになる。
國分 三浦君の買い物環境がぜいたく過ぎだ、という批判はあり得ると思うのだけど(笑)、何も個人商店でなくても、近所のスーパーに通うだけで、まるで違いますよね。
三浦 スーパーでも、野菜売り場などは、旬の地場野菜を前面に押し出したりしていますし、それが目に入れば、体が反応して、「自分が何を作って食べたいのか」という方向性が、途端に見えてきますからね。
國分 食べ物の話で盛り上がると忘れそうになるのですが(笑)、三浦君は映画研究者であって、本の中でも、映画作家のロベール・ブレッソンの言葉を引用しながら、映画のモンタージュ(※)は料理と一緒だ、と書かれていますね。映像というのは、文脈との組み合わせによって、感じ方が変化する。知覚されなかったことが、編集によって知覚されるようになる。これは料理の風味にもいえるのではないか、と。
※多数の映像を組み合わせてつなぎ、一連のシーンを作る技法
三浦 調理がなぜそもそも楽しくて、かつ、自由でいいのか。その点は、映画編集のおもしろい点と同じではないか、と思ったのです。
國分 ブレッソンは、偶然を呼び込むための余地をあらかじめ空けておく、と言っていましたが(※)、「偶然これが売られていたから、この料理にしよう」「これがあれば、昨日の残りの食材と組み合わせられる」、そういうふうに決まってくる。
※『Notes sur le cinématographe』(邦訳書『シネマトグラフ覚書』筑摩書房、松浦寿輝訳)の中で、「驚くべき偶然、それは正確に作用する。悪いものを排除し、良いものを引き寄せる方法だ。偶然が入り込む余地をあなたの構図の中にあらかじめ確保しておくこと」と述べている
三浦 映画も料理も、揺らぎを秘めた自然が相手なのだから、自分であらかじめすべて決めてかかったり、コントロールし過ぎたりするのではなく、その日の条件の中で、偶然に任せて決めていくと、驚きがあって飽きない。クロード・レヴィ=ストロース(※1)の言う「ブリコラージュ(※2)」に近い。
※1 フランスの社会人類学者、民族学者
※2 ありあわせのものを寄せ集めて、必要な道具などを自分で作ることを表す概念
自分で料理をすると視点が増える
冷凍食品の見方も変わる
國分 料理をしていて一番うれしいのは、余った食材同士の組み合わせで、うまく別の一品ができたときなんです。
あと、料理の話になって、「揚げ物をよくします」と言うと、相手は必ず「ええ!? 油はどうやって捨てているんですか?」と聞いてくる。なぜみんな、油の捨て方を集中的に聞いてくるのか(笑)。ちなみに私は、牛乳パックに紙を詰めて油を吸わせ、燃えるゴミに出して捨てています。食材のパッケージ含め、料理をすると必ず大量のゴミが出るので、「ゴミ処理」というのも料理において重要な視点ですよね。
三浦君も本の中で、「キッチンに魚の通り道をつくる」と述べている。青魚の調理は臭いし、処理が面倒で、普通は避けて通りたい。三浦君がなぜそれを料理できるかというと、台所に「生魚はここに持ってきて、ここで料理して、ここでゴミにする」というシステムをつくり上げているからですよね。
「揚げ物が苦手」「魚がさばけない」と思っている時、「油を捨てるシステムをつくる」「魚の通り道をつくる」という発想をちょっと持ってみるといいかもしれない。
三浦 僕も初めは青魚の料理が苦手だったんです。でも、初めて新鮮な青魚の刺し身を食べた時、「なぜ、今まで『臭い青魚』が当たり前だと思っていたのか、何かだまされていたんじゃないか」とさえ思いました。
地域によっては、こうした新鮮な取れたての魚を、数百円で日常的に食べられるんです。システム化に加えて、新鮮な魚を商(あきな)う魚屋さんが近くにあれば、面倒はありません。ただ、そうした恩恵をこうむるには、例えば、魚屋さんの近くに引っ越すといった、ちょっとした努力は必要ですが(笑)。
國分 新鮮な青魚を安く食べるために、引っ越さなければいけないのか(笑)。
三浦 「26週」ではなく、「26年」ぐらいの長期計画で(笑)。
引っ越しよりさらに望ましいのは、自分の地域に「共同出資して魚屋さんをつくる」ことです。実際、知り合いが本当にそれを実現させたんです。クラウドファンディングで魚屋さんをつくり、地元の漁港で取れる魚だけでなく、九州から空輸される素晴らしい鮮魚を毎日売っています。近隣の自炊者の幸福度は格段に上がりました。
國分 そこまですれば、まさしく自治ですね。アメリカでも、資本主義が個人商店を破壊し尽くして、メガスーパーばかりになったので、生協のような共同体を有志でつくる動きがあると、聞きました。
三浦 外食や中食(なかしょく)が充実することで家事負担が減ったように、いろいろなものがアウトソースされることの恩恵は、素晴らしいと思っています。
ただし、どこまでアウトソースし、どこから自分の体でやる技術として残すか、その線引きをどうするかも、この本で考え直したかったことです。
國分 ここも大事なポイントですね。本書は、食通が、後片付けもゴミ捨てもしないで、大上段から「青魚を生で食べる」ことを論じるような、いわゆる「男の料理」の本ではない(笑)。ゴミをどう捨てるか、家事分担をどうするかまで論じている本です。
自分で料理をすると、忙しい人に冷凍食品を出してもらったとき、「手抜き」と感じるのではなく、心から「おいしがる」ことができる。そんなふうに見方が変わるというのも、この本の素晴らしいところですね。そして、自分で料理することの喜びや楽しみを、この本を通して、もっと多くの人に知ってもらえるといいなと思います。
三浦 今日は本当にありがとうございました。