うまくなるから楽しいのではない
自分が変わってゆくプロセスが楽しい
青山学院大学文学部比較芸術学科教授。映画批評・研究、表象文化論。食についての執筆も行う。主な著書に『自炊者になるための26週』(朝日出版社)、『サスペンス映画史』(みすず書房)、『LAフード・ダイアリー』(講談社)、『食べたくなる本』(みすず書房)、『映画とは何か――フランス映画思想史』(筑摩書房)など。訳書に『ジム・ジャームッシュ・インタビューズ』(東邦出版)
三浦 まさに。料理すること自体が楽しい。料理の技術や、料理によって結果的に得られる価値が、私に楽しいことを与えてくれるのではなくて、日々、少しずつ実践しながら、自分が変わってゆくプロセスが、ずっと楽しいですし、今も楽しいと感じています。
國分 本を書いた三浦君において、知と楽しみが結び付いている。そして、それを読んでいる僕のような読者においても、読書の中で知と楽しみが結びつく。
料理本や料理のレシピは世にあふれていますが、料理を論じるとき、こういうことの重要性はあまり理解されていない気がするんです。
三浦 知と楽しみの結び付きについては、ご指摘くださった通り、この本のもっとも大事なテーマだったと思います。本の構成上、理論編と実践編とが、ある程度、並行しているのですが、両者が結び付いて融合することをめざしています。
また、本書では「鼻」と「口」の関係を捉え直そうと試みてもいます。鼻は、においによって外界の情報を知る、認識の器官です。口は、同化吸収によって、生理的な満足をもたらす器官です。「食べる」という営みでは、この2つがやはり融合します。
それから、この点については、國分さんが研究してこられたスピノザが、魅力的な言葉で語っていますね。適度に、美食をし、おいしいものを飲み、においなどを楽しむ。そして自分を作り直し、再び創造する。それが、賢い人間である「ホモ・サピエンス」だと。
東京大学大学院総合文化研究科教授。専門は哲学・現代思想。主な著書に『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』(新潮新書)、『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書)、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)など。
國分 スピノザの「賢者」のイメージ(※)は、まさに、アガンベンがいう、「知」と「楽しむこと」が分かたれていない状態なんです。
※『エチカ』第4部の定理45の備考2参照
三浦 学部時代の指導教官が野崎歓(のざきかん)先生(※)だったことも大きいと思います。
1980年代から1990年代前半にかけて席巻した「記号論」などの高度な理論研究を踏まえつつ、それ以上に、言葉や映像のもたらす歓(よろこ)びや官能性を、いかにしてきめ細やかに言語化するかを問題にされた。それに啓発されたこともあって、私は研究者を志しました。
※フランス文学者、東京大学名誉教授
私が大学院で、國分さんたち先輩と研究の日々を送っていた2000年代には、「身体」で起きていることを重視し、再評価する傾向が強まった時期でした。折しも2000年代には、身体論的な考え方が強まっていて、國分さんも後に『中動態の世界 意志と責任の考古学』の中で、「身体が喜ぶこと」と「何かを知ること」を、並行して語っていますよね。
ですから、「楽しむこと」は、もともと自分の中の傾向としてあり、その方向で、料理について書きたいと思ってはいました。