同じ国の中でも
人によって「記号」は異なる
ここは日本人の読者にとっては共感するのが難しいところかもしれません。なぜならトランペットは「ただの道具」ではなく「使う人の魂そのもの」だという記号が頭の中で沁みついている可能性があるからです。
日本では古くから「刀は武士の魂である」とか「この場所は俺たちにとっての聖地なんだ」といった具合に、物や場所の記号に特別な意味を込める傾向があります。でも国によって、社会によってはその記号の意味が違うということを想像してみてください。
そういった国では「大量の物」が「破壊」された後に「それらのすべての物と等価な新しい機械」が出現する。しかも信じられないくらい軽くて薄い。そういったことを暗示する動画を見て「凄い」と興奮するひとたちが一定数いる。受け取る意味が違う世界があるのです。
ある社会では誰も気にしないことを、別の社会では極端に気にするという事柄は、それぞれの社会ごとに山ほど存在します。ここで言う社会とは、国単位の場合もあれば、もっと小さな自治体だったり、組織だったり、集団だったり、最小の単位で言えば家庭だったりする場合もあります。
私の小学校時代のエピソードです。クラスの友人がある日、非常に落ち込んだ様子で登校してきたことがあります。話を聞くと、前日に父親から強く怒られたというのです。理由は「畳の上に置いてあった本を踏んだから」だということでした。
その家では「本」という記号には「ただの紙の束」という意味ではなく「人類の英知を記したとても尊い存在」という意味が振られていたようです。確かに「焚書」という言葉あるように、本を燃やすという行為には単にゴミを処分するのとは別の記号としての意味がついています。
彼の家がそうだったかどうかは別にして、そういう考えの人が宅配便を送る際に、隙間に古い新聞紙をくしゃくしゃに丸めて緩衝材として使っていたりします。キャンプの際には新聞紙を焚付けに使うこともあるでしょう。そのような世界では「本」は尊いけど「新聞」は紙だという記号が通用しています。