加齢とともに見放された日本人男性が行き着いた先
フジテレビ系列で放送された『ザ・ノンフィクション』(「私の父のなれのはて」)が追ったのは、2024年時点で74歳の平山さんという男性だった。友人から誘われ2004年にフィリピンに渡り、日本料理店開業を計画したが、知人が開業資金をカジノで使い込んでしまい無一文に。帰国の道を絶たれた平山さんは、日本では行方不明とされながらも、フィリピン人女性との間に子をもうけ、貧しさの中で生きていた。
筆者は今春、取材先のマレーシアの首都・クアラルンプールで、上海から渡ってきて最期を遂げたある日本人男性の遺品に接した。家族も持たず、「風の向くまま」に生きてきた日本人男性(享年76)の客死だった。
この男性を石田さんと呼ぶことにしよう。一時代を上海で過ごした石田さんが、上海からクアラルンプールに南下してきたのは2018年のことだった。ほぼ無一文といった状態の石田さんを救ったのは、クアラルンプール在住歴12年になる斉藤さん(仮名)だ。
石田さんと斉藤さんは、上海で共に生きた仲だった。習近平政権が発足した2012年以降、上海ではビジネスのやりづらさに悲鳴を上げる日本人が増加するが、斉藤さんは時代の変わり目に早くもクアラルンプールに拠点を移していた。
「石田さんが上海から出ざるを得なかったのは、ビザの取得が困難になったこともあると思いますが、誰も面倒を見てくれなくなったことが大きいと思います。上海在住の単身の日本人男性の中には、身の回りの世話をしてくれるシャオジエ(小姐)と呼ばれる女性の存在があり、見返りに金銭やマンションを買い与えたりして深い関係になる人もいます。けれども、年を取るとともに見放されてしまう日本人男性が少なくないんです」(斉藤さん)
後期高齢者への突入を目前にした石田さんの居場所は、すでに上海にはなくなっていた。ましてや日本にも頼れる家族や友人はいない。石田さんが選択したクアラルンプール行きは、そういう意味を含んでいた。そんな石田さんに、情の厚い斉藤さんは仕事と住まいを与えた。
ある日、石田さんは心臓の痛みを訴え、救急車で搬送された。しかし、石田さんはマレーシアに流れ着いたときには預金やクレジットカードもなく、海外旅行者保険にも加入していない状態だった。こうした理由から早々に退院させられた石田さんを、再び斉藤さんが引き取り面倒を見た。
近くのマンションに住まわせ、朝9時と夕方5時に定期的に食事を出す。そうやって日課を作り、斉藤さんは毎日石田さんの安否を確認した。
「私の父のなれのはて」の最後のシーンでは、フィリピンの平山さんは車いすに乗っていた。時々刻々とその日が近づいていることは本人もわかっている様子だった。
一方、筆者が取材で知ったマレーシアの石田さんの、「その日」の到来は、想像以上に早かった。事態が急変したのは、退院した矢先のことだった。