ソファで横たわるランニング姿の石田さんの最期
ある日の夕方から、斉藤さんは石田さんと電話の連絡が取れなくなった。悪い予感がしたので警察に連絡し、駆けつけた警察が蹴破ったドアの背後から部屋の中をのぞいた。
すると、そこには、ソファの上でランニングとパンツ一丁で動かなくなった石田さんの姿があった。あっけない最期だった。
1990年代後半から続く石田さんとの関係について、斉藤さんは「腐れ縁」だと言うが、その縁はすぐには切れなかった。石田さんの遺体をどうしたらいいのか――。その後、斉藤さんは四方八方、手を尽くすことになる。
真っ先に電話をしたのは、マレーシアの日本大使館だった。石田さんが親族の電話番号のメモを持っていたため、斉藤さんは大使館に連絡を願い出たが、大使館員からは「それ以上は何もできません」と告げられる。つまり、必要な手続きや金銭の負担は斉藤さんがやってください、という意味だ。
邦人の遺体への対応について、外務省OBに尋ねてみると、確かに「ご遺体の搬送などの支援はしますが、金銭的な負担を大使館が行うのは難しいかもしれません」ということだった。
クアラルンプールで荼毘(だび)に付す
立っているだけでも汗がしたたり落ちるマレーシアだが、斉藤さんは、石田さんの親族がクアラルンプールに到着するまでの1週間、火葬場を探したり、遺骨を日本に持ち帰るための手続きを調べたりと、連日奔走した。
マレーシアでは、遺体は親族でないと引き取ったり火葬をしたりすることができず、その間、遺体は警察が預かるということで、大学病院の遺体安置所に移送された。石田さんの体は袋状のもので包まれ、銀色の扉が付いた冷凍庫の中に入れられた。
連日気温30℃を超えるマレーシアでは、通夜などの儀式はなく、火葬はその日に短時間で行われる。順番が来ると、ひつぎはベルトコンベヤーに乗せられて暗いトンネルに入っていく。その茶色いひつぎを、斉藤さんは静かに見送った。
「ひつぎはトンネルの入り口でいったん止まりました。この世とあの世の境となるトンネルの入り口上には仏像があり、額(ひたい)の白毫(びゃくごう)から、無数のレーザービームが出て、石田さんのひつぎを照らしていました」(斉藤さん)
マレーシアは人口の約3割が華人系といわれており、仏事での葬儀も執り行われているようだ。荼毘に付した後、斉藤さんは骨つぼを日本大使館に運んだ。そこで見たのは「骨つぼのふたの固定」という意外な作業だった。
「骨つぼのふたを赤い蝋(ろう)で封印するんです。ここに麻薬を入れて日本に持っていこうとする人もいたからだそうです」と斉藤さんは話す。
マレーシアで客死した石田さんの遺骨は遺族に引き取られ、海を越えてようやく日本に戻ることができた。