好きなことをして過ごすことが、イキイキした老後につながる

 牧野自身、自分の人生を振り返って、次のように述べている。

「私は大学を辞めても植物の研究を止めるわけではないから、その点は少しも変りはないわけである。『朝な夕なに草木を友にすれば淋しいひまもない』というのが私の気持である」(牧野富太郎『牧野富太郎自叙伝』講談社学術文庫、以下同書)

「大学を出て何処へ行く? モウよい年だから隠居する? トボケタこと言うナイ、(中略)マア死ぬまで活動するのが私の勤めサ」

「思い出深い大学は辞めたが、自分の思うように使える研究の時間が多くなったことは何より幸いである」

 退職でさびしがったり落ち込んだりすることはまったくなく、むしろ好きなことに没頭する時間が増えたと喜んでいるのであり、まだまだ植物研究から引退する気など毛頭ないのだった。

 そして、80代半ばになっても植物研究への情熱も意気込みも変わらなかったのは、次のような言葉を見れば明らかだ。

「私は今年八十五歳になるのだが、我が専門の植物研究に毎日毎夜従事していて敢て厭(あ)く事を知らない」

「故に今日の私はわが一身を植物の研究に投じ至極愉快にその日その日を送っているので、こうする事の出来るわが身を非常な幸福だと満足している次第である」

「私はこの八十六の歳になっても好んで、老、翁、叟、爺などの字を我が姓名に向かって用いる事は嫌いである。(中略)『わが姿たとえ翁と見ゆるとも心はいつも花の真盛り』です」

 このように言う牧野は、自分は老け込んだというような気持ちを抱いてはいけないとし、そうした気持ちになる人が世間に少なくないことを嘆き、いくら年をとっても若者に負けずに仕事に精を出すことが大切だとする。

 そして、自分が年をとっても健康でいられるのは、生涯没頭できるものがあるからだという。

「私の一生は殆ど植物に暮れている。すなわち植物があって生命がありまた長寿でもある。(中略)私がもしも植物を好かなかったようなれば、今ごろはもっと体が衰え手足がふるえていて、心ももうろくしているに違いなかろう」

「私が自然に草木が好きなために、私はどれ程利益を享(う)けているか知れません。私は生来ようこそ草木が好きであってくれたとどんなに喜んでいるか分りません。それこそ私は幸いであったと何時も嬉しく思っています」