また戦争には明確な「敵」がおり、そこに注力しているときに、別の「敵」=魔女を裁いている余裕はないのだろう。逆に軍事的支配が強力になされ、統制が保たれているゆえに魔女狩りが抑えられた、という場所もあろう。

 しかしながら、戦争と魔女狩りに直接の関係はないにせよ、戦争も飢饉や疫病などの災厄とおなじく、経済的にも栄養学的にも人間の生存を不安定にして不安心理を醸成するので、他の要因と絡み合いながら、魔女狩り激発のための温床を作ると考えたほうがよい。

 実際、三十年戦争の途中、1627~32年に南西ドイツの一角で魔女大迫害が起きたし、三十年戦争が終わるや否や、北フランスやスイスでは休止していた魔女狩りが大規模に再燃したのである。17世紀末のポーランドの魔女裁判も、戦争の負の遺産の好例だ。

 以上、気候不順、疫病、戦争と魔女狩りとの関係について検討した。魔女が仕立て上げられる素地になった人間関係の破綻、共同体の社会的結合関係のほころびについて次に見てみよう。

「新世界」の発見、資本主義の展開
激動の欧州で発した魔女狩りの萌芽

 魔女狩りの時代とくに16世紀から17世紀前半にかけて、ヨーロッパの経済・社会にはどんな変化があっただろうか。15世紀末に新世界が「発見」され、以後さまざまな産物や金銀が流入、商業・交易は活発化し、いわゆる価格革命が起きる。

 この経済の変動により、農村共同体の姿は大きく変わっていった。

 すなわち資本主義の展開に適応して都市で地位を高め、参事会の座席を得た官職貴族やブルジョワ(商人、法曹家、公証人、高利貸し、小官吏、富裕農民)たちが、農村にも進出して大地主になり、富を蓄積していった。

 しかし他方ではもともとの農民たちには小さな耕作地しか残らず、物価の高騰に租税苦も加わって家族を養えなくなり、領主直営地で賃労働したり、都市へと移住したりした。

 農民の状況をもう少し詳しく眺めてみよう。ペスト禍によって14世紀半ばからつづいた人口減少局面が16世紀に入って反転し、人口は18世紀まで増加基調になるが、16~17世紀には、度重なる災厄による急落とすぐさまの回復により人口曲線は鋸歯状を呈した。