このため、わかりやすさではなく「察し」に基づき、「空気」の解釈=空気を読むということに任せる部分も多いのです。

 相互依存性が高い民族は、集団主義的関心や調和の維持にとらわれており、怒りの表現など、否定的感情への関心が低い傾向があるとされています。

 否定的な感情を避ける傾向がある日本人は、否定的な感情から遠ざかろうとする場合、心的・物理的など、いろいろな意味で他者と距離を置こうとすることになります。

 つまり、健全なぶつかり合いで解決できる関係性の問題でも、解決されないケースがままあります。

隠された相手の感情まで
「察する」日本人の能力

 どの文化の中でも感情の幅、認識されている感情の類は、ほとんど変わりません。

 しかし、感情の解釈は文化により異なり、感情強度の判断においても(たとえば悲しみといっても、軽い寂しさから絶望まで幅が存在する)、民族間で異なります。

 アメリカ人は、相手の感情を察するよりも(外的ディスプレイ)示している感情を高く評価し、日本人ははっきり表示されていない感情でも認識するわけです。

 アメリカ人は強度に関係なく、すべての表情に対して、内的経験に対する外的ディスプレイの評価を誇張する可能性があります。

 一方、日本人は外的表示と内的経験の強弱を区別できます。その結果、外的表示に対する内的経験の推定評価が高くなるのかもしれません。

 いわゆる「察する」というもので、実際には、どれくらい悲しんでいるのか、程度をもっと正確にとらえるのです。

 表情から相手の内面的な世界を、かなり正確に把握する日本人は、素晴らしい能力を持っていると言えるでしょう。

 集団主義的な文化圏の人々は、場面に応じて表情を弱めるという表示規則を認識しているため、人が実際に示している以上のことを感じていると仮定して、他人の表情をより「読み取る」可能性があることを示唆しているのです。