「日本は時間の流れが速すぎる」
パキスタン人記者の思い

 インタビューはその南アジア風のリビングの床にお互い向き合って座りながら実施することにした。彼は時折、大型テレビから流れるパキスタンのニュース番組に目をやりながら、私の質問に日本語と英語のミックスで答えた。

「この国で一人の命が失われたのに、ほとんどの日本人がそれを知らない。それはあまりに悲しいことだと、俺はこの国で暮らしながら時々、外国人の一人として思うんだ」

 取材の冒頭、彼は私ではなく、床の上に据えられた録画用のデジタルカメラを見つめながら言った。

「日本はとても良い国だと思う。世界的に見ても平和だし、治安も維持されている。でもね、ここで暮らしていると時折、あまりにも悲しくなるというか、時間の流れがちょっと『速すぎる』と感じるときがあるんだよ」

 サマドへのインタビューはそんな少し棘のある言葉のやりとりから始まった。

 サマドがパキスタンから日本にやって来たのは1980年代だった。1989年まではパキスタン人にはビザの免除措置があり(以後は停止)、当時は多くの若者がパキスタンから日本に渡ってきていた。

 彼を含めた多くのパキスタン人にとって、当時の日本は世界でも経済成長が著しい、マルコ・ポーロが記した「黄金の国ジパング」そのものだった。パキスタンの高級店で売られている電気製品はどれもがソニー、カシオ、パイオニアであり、街中の道路はトヨタ、ホンダ、日産の車で溢れかえっていた。

 学生時代に父親からヤシカのカメラを買ってもらったサマドも、やがて日本行きを夢見るようになった。メイド・イン・ジャパン──それは高級品の証であり、輝ける未来を約束する神話でもあった。

 サマドは知人を頼って来日した後、関東近郊の印刷会社や中古車販売会社などを転々としながらお金を貯めるために必死に働いた。その際、埼玉県越谷市で開かれていた中古車のオークション会場で、同年代のパキスタン人とよく顔を合わせるようになり、親しくなった。

 それがラホール出身のサレーム・モハメド・アヤズだった。

 ひょうきんでいつも笑顔を絶やさないアヤズは、周囲を笑わせるのが大好きな青年だった。爽やかで誰からも好かれるお調子者。何度か一緒に食事をするうちに、すぐに携帯電話で中古車の情報をやりとりするようになった。