その後、サマドはパキスタンのテレビ局と契約し、リポーターの仕事を請け負うようになった。大使館が開催する交流イベントの運営にも携わり、それを映像におさめて祖国へと送る。取材や編集には膨大な時間を必要としたが、パキスタン人にとって憧れの国である日本の姿を祖国の視聴者に伝えられる喜びは、彼にとって何物にも代えがたい経験だった。

トラック配送中に被災したパキスタン人
記者は支援を呼びかけ続けた

 そんなリポーターの仕事を始めて数年が過ぎた春の日に、あの震災は起きた。

 2011年3月11日。

 サマドは東京都港区のパキスタン大使館で職員とイベントの打ち合わせをしていた。地球の地軸が突然傾いたのではないかと思えるほどの激震に大使館のパキスタン人スタッフはパニック状態に陥ったが、日本人職員の誘導によってなんとか近くの公園に避難することができた。

 以来、混乱の日々が長く続いた。大使館には国内外から日本にいる約1万人のパキスタン人の安否を問う電話が殺到し、大使館員は不眠不休で対応に当たらなければならなかった。

 国民の9割以上がイスラム教徒であるパキスタン人は、日本の各地に点在するモスクを中心にコミュニティーを形成している。間もなく、ほとんどの在住者の安全がモスク経由で確認されたが、安否のわからない人が何人かいた。

 そのうちの一人が親友のアヤズだった。震災当日はトラックの運転手の仕事を請け負っていたらしく、大使館には職場から「アヤズさんが東北地方に配送に行ったまま、帰って来ていない」との連絡が寄せられていた。

 震災から約10日後、一通の連絡が入った。

「福島県の沿岸部で、パキスタン人とみられる遺体が見つかった」

 すぐさま大使館のスタッフとアヤズの顔を知る茨城県坂東市のモスクの関係者が現地に向かい、遺体がアヤズであることを確認した。

 数日後、坂東市のモスクでは「アヤズの死を悼む会」が催された。100人以上のパキスタン人が集い、祖国から遠く離れた異国の地で命を落とした同胞の死を深く悼んだ。