サマドはその際、パキスタンのテレビ局から葬儀の様子をカメラで撮影し、本国へと送る仕事を請け負った。同胞たちが棺に納められたアヤズの顔を拝み、別れを告げていく。でも、彼はいつも笑っていた親友の顔をどうしても見ることができず、人々が棺の中をのぞき込むシーンだけは撮影することができなかった。

 そのとき、サマドは初めて気づいた。「報道」というものは、人に見せたいものを見せる「娯楽」ではない。むしろ人に見せたくないものを撮影し、その事実を伝えるための「装置」なのだ、と。

 同胞を失い、悲しみに暮れるパキスタン人たちは、その日のうちに「今、日本のために何ができるだろう」と話し合い、できる限りの救援物資を集めて被災地に送ることを決めた。

 パキスタン本国からはすでにたくさんの水や牛乳、ビスケットや毛布、子どもたちのためのノートやクレヨンが送られてきていた。2005年にパキスタンで地震が起きた際、日本の救援隊が支援にかけつけてくれたことを多くの国民が覚えていたのだ。

 東京で暮らしている同胞に呼びかけたところ、1日で100万円を超える義援金が集まった。サマドをはじめとするパキスタン人たちは本国からの支援物資を4トントラックに積み込んで、福島県や宮城県などの避難所を回った。

 各地でカレーやケバブを作って被災者に提供し、彼はその映像をパキスタンのテレビ局へと送り、日本へのさらなる支援を呼びかけ続けた。