「わかったよ」とサマドはスマートフォン越しに笑って言った。

「報道関係者ってのはどこも同じだな。時間を作ってしっかり対応するよ。でも、なんだか不思議な気分だぜ。俺が取材をしようと思って電話を掛けたのに、逆に取材を受けることになるなんてな……」

思い違いからかけた電話
それが被災者へとつながった

 久しぶりに訪れた東京都荒川区は、私がかつて東京で勤務していた約20年前とそれほど変わっていなかった。新築のタワーマンションの林立により空の線こそいくぶん変容しているものの、足元には中小の工場群が軒を重ね、小型トラックがエンジンをうならせて裏路地を通り抜けていく。その騒々しさと排ガスのにおいは、未来永劫変わらないこの町のアイデンティティーであるようにも思えた。

 駅前のスーパーに入ると、「最安値!」と手書きされた札が野菜売り場のあちこちに貼り出され、大勢の女性客らが忙しそうに手を伸ばしている。昭和的ともいえる風景の中には、少なくない数の東南アジア人や南アジア人の親子連れが紛れ込んでおり、見慣れた下町の風景に新たな活気を生み出していた。

 スーパーの駐車場で待ち合わせたサマドは、上背が185センチ以上もある50代後半のパキスタン人だった。黒のジャケットに身を包み、声が極端に低いので、若干威圧感があるが、短く雑談を交わした後はお互いメディア業界で働く者同士、すぐに打ち解けた関係になった。

「いやあ、本当に申し訳なかったね」とサマドは最初に英語で謝った。

「モスクの知人から『東北でパキスタン人が亡くなった』って聞いたものだから、慌てて電話を掛けてしまって。でも、もしそれが『日本人の記者が津波で亡くなったパキスタン人を取材で探しているので協力してほしい』という話だったら、おそらく電話はしなかったと思うな。君もそうだと思うけれど、ほら、俺たち、忙しいからさ」

 私は小さく笑って頷きながら、彼に取材に応じてくれたことへの感謝を伝えた。

 彼が案内してくれたのは駅から十数分ほど離れたタワーマンションの高層階だった。彼はそこをオフィス兼住居として使っているらしく、窓からは薄曇りの東京の下町の風景を一望することができた。ローテーブルの上には南アジア産のナツメが置かれ、リビングには中東のペルシャ絨緞が敷かれている。