地震が発生し、轟音響く
男は福島第一原発の5号機内にいた

 2011年3月11日。

 蛭田は職場である福島第一原発の5号機内にいた。当時、5号機は定期点検中で、東京電力の下請けとして機器のメンテナンスを担当していた彼が作業の準備に取りかかろうとしたとき、あの激震は起きた。

 午後2時46分。「ゴンゴンゴーン」というビルの建設現場で地中深くに巨大な杭が打ち込まれたときのような轟音が足元から響き、両手を広げてもバランスを取れないほどの強烈な揺れに襲われた。

 安全確保のために原子炉建屋の外に出ようと防護服の脱着所に向かうと、あれほど堅牢だと言われていた建屋内の壁が崩落し、通路にはコンクリート片が転がっていた。

「大丈夫だ!原発は頑強な岩盤の上に建てられている!」

 途中、ベテランの作業員がまるで自分に言い聞かせるように周囲に大声で叫んでいるのが聞こえた。

 5号機は定期点検中で比較的被害が軽微だったため、原発作業員たちは敷地内の高台にある下請け企業の事務所に集められると、午後4時半、点呼や確認を終えて解散になった。

 原発を出ると、すぐさま自宅のあるいわき市の薄磯地区へと車で向かった。海沿いの国道は土砂崩れや津波の浸水などで通行止めになっており、通常なら1時間ほどで着く道のりが4時間以上もかかってしまった。

 半日前まで生活の一部として機能していた物々が、むきだしの状態で周囲に放り出されていた。

 便器、カツラ、柱時計、巨大なぬいぐるみ、豚の死骸、無数のウレタンマット、沖合にあるはずのブイ、松の枝、女性用の性具、漁船のプロペラ、打ち上げられた魚、仏壇の遺影、バスケットボールのゴール、子どもの通信簿、グシャグシャに圧縮された軽自動車の数々……。

 無数のがれきに阻まれてその日は結局、薄磯の自宅にたどり着けなかった。周辺の避難所を回ると、そこで初めて隣人から妻と娘が行方不明になっていることを知らされた。

「あの状況で胸に湧き上がってくる感情などありませんでした」と彼は当時の心境を振り返った。

「暗闇と泥で目に映るすべてのものが真っ黒で、妻子の不明を知らされても、私はただ『ああ、そうですか』とだけしか答えられませんでした。他人から見れば、薄情者だと思われたかもしれませんけれど……」

震災後、母娘の遺体が見つかる
「グレース、向こうで真里亜を頼んだぞ」

 翌日以降、彼は母親の自宅で寝泊まりしながら、妻子の姿を求めて避難所を回った。

 娘の真里亜が塩屋埼灯台下のテトラポッドで見つかったのは、震災2日後の3月13日だった。