福島第一原発・広野火力発電所Photo:PIXTA

東日本大地震による、「外国人被災者」の報道は国内でほとんどされない。福島第一、福島第二、柏崎刈羽、女川、志賀…原発地域を転々とする原発作業員だった男性はフィリピン人の妻と娘を津波で失った。彼の壮絶な震災体験を知ってほしい。※本稿は、三浦英之著『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』(新潮社)を一部抜粋・編集したものです。

夕食を囲みながら家族で話した
「いつかみんなでフィリピンで暮らそう」

 福島県いわき市内の高校を卒業後、蛭田が知人に誘われて原発で働き始めたのは25歳のときだった。各地の原発が定期検査に入る度に、現地に赴いて半年から約9カ月間、寮生活を送る。福島第一、福島第二、柏崎刈羽、女川、志賀…。原発の立地地域を転々とする生活を長く続けた。

 フィリピン出身の妻グレースと知り合ったのは、彼が27歳の時だった。知り合いに連れて行かれたいわき市内のフィリピンパブで、南国の花のような美しさと明るさに魅了された。窓のない原発で働き続ける毎日が、「光」をより眩しいものへと感じさせた。

 グレースは幼い頃に両親が離婚し、フィリピンで暮らす8人のきょうだいと娘のために学費や生活費の仕送りをしていた。その境遇が、やはり幼い頃に両親が離婚し、理髪店を経営する母の手によって育てられた蛭田の生い立ちと重なった。

 力になりたい、と彼は思った。

 交際は、フィリピンパブを辞めたグレースが偶然、蛭田の姉が経営するカレー店を手伝いに来たことをきっかけに始まった。

 結婚したのは1996年。しばらくして、娘の真里亜が生まれた。

 夫婦はいわき市の沿岸部の薄磯にあった古い民宿を購入し、生まれたばかりの真里亜が寂しがらないよう、2匹の犬を飼って共に暮らした。

 グレースが夜の仕事で忙しいときは、近くで理髪店を営む母や市内でカレー店を経営する姉が娘の面倒を見てくれた。

「お友達にばかにされないように、漢字はしっかりと覚えなきゃだめよ」

 漢字が苦手なグレースがそう笑いながら母や姉と一緒に真里亜の漢字の勉強に付き添う姿を見て、蛭田は幼い頃に両親の離婚で失われた家族の絆を取り戻せたような気がした。

「いつか歳を取ったら、みんなでフィリピンで暮らそうな」

 家族で夕食を囲みながら、よくそんな話をして盛り上がった。

 娘はあと数カ月で中学生になる。蛭田にとって「いつか」は不確定な夢ではなく、娘が高校を卒業する「6、7年先」といった具体的な未来だった。