敗戦により航空機産業を奪われた日本は、軍用機も民間機もアメリカから輸入するしかなかった。そのマーケットをつかむべく、アメリカ航空産業各社が派遣した実力幹部のたまり場だったのが、赤坂の「コパカバナ」だ。アラブの国王やスカルノ大統領も通い、デヴィ夫人も在籍していたという超高級クラブに集まる紳士たちの「仕事ぶり」を追った。※本稿は、ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『東京アンダーワールド』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです。
航空機業界の国際取引は
誰も彼もがワイロまみれ
1970年代の国際商取引きのなかで、腐敗の激しい業界といえば、おそらく航空機業界が一番だろう。しかも、腐敗の度合いは年々ひどくなる一方だった。
アメリカの大手航空機製造会社も、それを販売する貿易会社も、さらには日本の役人も、その役人たちにそそのかされた産業界のリーダーたちも、みんながみんな賄賂にどっぷりとつかっていた。ひとたび契約が成立すれば、けた外れの金が転がり込んでくる。
折しも、日米間の貿易不均衡がますます激しくなり、閉鎖的な日本市場への不満の声が高まりつつあった。ところがそのわりには、アメリカの民間および軍事用航空機産業においては、不満の声がほとんどあがっていない。これは特筆に値する。
実際アメリカは、日本の軍用機関係のマーケットを、事実上独占していたといっていい。そもそも日本の自衛隊は、米軍を模して結成されている。自衛隊員は、米軍によく似た組織で育成され、訓練のためにアメリカへ送られる。となれば、アメリカ製の航空機を買うのは、しごく当然の成り行きだった。
アメリカ人に有利なシステムは、ほかにもいろいろ設けられた。米国国防総省は、日本がどんな型のロケットを購入すべきか、どれを辞退すべきかを細かく指定している。しかも、その値段まで、予告なしに独断で決めた。
そればかりか、アメリカ製品を使用している最中に、日本人が技術的なアイデアを思いついた場合には、フロー・バック・テクノロジー法にしたがって、アメリカ側に無料で教えることも義務づけた。
この取り決めも、「日本は航空機を独自に開発してはならない」というアメリカ側からの一方的な押しつけも、日米安保条約にしたがって日本を軍事的に“守る”ことへの代償とされた。アメリカが日本を核攻撃から守れるとは、誰も本気で信じていなかったのだが。