吉見 そうそう、それが本音かもしれませんね。まさしく私が『東京裏返し』で強調したのは、ある時代から次の時代への転換は、時間軸上に連続的に並んでいるわけではないこと、むしろ都市論的に言えば、異なる時代はその都市の空間的な広がりのなかで並存している。空間のなかに異なる時間が分布しているのです。

 しかも、それらは単に並立的にそこにあるのではなく、むしろ時代の歴史層は幾重にも重層していて、異なる歴史層の間には征服や排除の断層が緊張感をもって走っている。街歩きをしながらそこを見極めるには方法論的な知が必要で、それが社会学やカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズムなどの知になります。理論的に言えば、『東京裏返し』で私がやろうとしたのは、ある種の東京のポストコロニアリズム的な街歩きの実践です。

 したがって、『東京裏返し』を書きながら私が導かれていったのは、都市の時間論です。先ほどの話と表裏ですが、都市空間のなかにさまざまな時間が並存しているのだとすれば、都市は本質的に時間的な存在でもあるわけです。

 その場合、単純に近代の時計的な時間で都市が動いているというよりも、都市はそこに共在している複数的な時間を生きている。世界のどこでも、その表通りが高速で流れる均質的な時間で覆われていても、少し路地裏に入ればその都市にかつてあった時間が今も残存し、崖下や川筋、高層ビルの隙間などにも異なる時間が静かに息づいています。

 そのような時間の複数性は、街歩きの経験を豊かなものにする最大のポイントです。旅先で、路地裏に入ると表通りとはまったく違う時間が流れているのを経験したことのある人は多いと思います。

 しかし一般には、近代都市でわれわれが前提としているのは、過去から未来へという直線的で均質な時間です。そうした直線的な時間は膨張し、すべての他の時間の表層を覆い、しばしばそれらを破壊する。つまり抑圧的に機能してきました。

メキシコシティで感じた
植民地時代の時間

――近代の時間軸が抑圧的とは、どういうことでしょうか。