吉見 今の話で言えば、表通りの均質的に流れているナショナルないしはグローバルな時間と、路地裏や崖下、川筋などに垣間見えるもっと微細に重層している時間との関係が問題ですね。

 前者、つまり表通りの時間は、昨今で言えばグローバル資本主義の時間、もうちょっと社会学的に言うとイマニュエル・ウォーラーステイン的な意味での世界システムの時間につながっています。

 他方、路地裏の時間は地域コミュニティの時間であることが多いと思いますが、ときには崖下や川筋、地形的な窪みのなかには死者たちの時間や歴史的に失われた都市の時間が息づいていることもあります。

 たとえば、私は1990年代のはじめ、1年近くメキシコシティで暮らしていますが、この巨大都市も表通りはアメリカナイゼーション、北米との経済統合のなかで資本主義の時間が露骨に浸透してきていました。

 ところが先住民の多い地区の路地裏に一歩入ると、生活のリズムもまったく異なるし、そこで祭礼の行列などに出くわすと、スペインの植民地だった時代の先住民たちの経験が今も想起され続けていることがわかるのです。都市において「生きられる時間」とは、そのような時間的重層性をはらんだものです。

 ところが一般には、私たちはついつい表通りの時間だけが都市の時間なのだと思いがちです。近代の時間軸に絡め取られた私たちは、本当は存在しているはずの歴史的他者の時間や周縁に追いやられた複数の時間を感じられなくなっているのです。

 街歩きは、多くの人々が、都市の下層に実は伏在しているそうした無意識化された複数の時間を再発見する、それらを再体験していく有効な方法論です。そのための実践的なガイドブック、先ほどの言葉で言えばシナリオを提供しようとしたのが『東京裏返し』でした。

時間的重層性を破壊する
デベロッパーの再開発

――東京を歩くことでそういう他者の時間や複数の時間軸が感じられるようになるのでしょうか。

吉見 都市のなかを速く動いてしまうとそれは不可能ですが、ゆっくり歩けば可能だと思います。近代は暴力と不可分に結びついているわけで、とりわけ近代都市の歴史では暴力的に都市を壊していくことが繰り返されてきたし、今も繰り返されています。